最近、新作ゲームを遊んでいて「昔ほど素直に楽しめなくなったかもしれない」と感じることがあります。
もちろん、今のゲームが昔よりつまらなくなった、と単純に言いたいわけではありません。むしろグラフィックや操作性、ボリューム、演出といった部分を見れば、ゲームそのものの完成度は間違いなく上がっています。それでも、いざ一本の作品を遊び終えてみると、「悪くはないけれど、何か物足りない」「ここはもっとこうしてほしかった」と、気がつけば欠点の方を探している自分がいる。そんな経験がある人は、案外少なくないのではないかと思います。
昔はどうだったかと振り返ると、少なくとも今ほど細かくゲームを採点するような遊び方はしていませんでした。新しいゲームを手に入れただけで嬉しかったし、多少不親切な部分があっても、それ込みで何とか遊ぼうとしていた記憶があります。今なら「テンポが悪い」「操作性に難がある」と切り捨ててしまいそうなゲームでも、当時はそれなりに長い時間遊んでいたりするものです。
では、ゲームの質が落ちたから、私たちは厳しくなったのでしょうか。個人的には、それだけでは説明できない気がしています。
今のプレイヤーは、すでに数え切れないほどのゲームを知っています。『ELDEN RING』のような完成度の高いアクションRPGを遊び、『ゼルダの伝説』シリーズのような自由度の高い作品にも触れ、昔の名作もリメイクや移植で簡単に遊べるようになりました。つまり、新作一本を遊ぶとき、そのゲーム単体だけを見ているつもりでも、頭のどこかでは過去に遊んだ数々の名作と比較してしまいます。
しかも今は、SNSや動画サイトを開けば、発売直後から膨大な感想が流れてきます。絶賛する声もあれば、「ここがダメだった」「期待外れだった」という意見もすぐ目に入るため、自分で遊ぶ前から評価軸を渡されてしまうことさえあります。ゲームに対する意見が昔より厳しくなったというより、批判的な評価が以前より圧倒的に見えやすくなった、と考えた方が近いのかもしれません。
そして、もう一つ大きいのが「過去に楽しかったゲーム体験」を新しいゲームにも求めてしまうことです。昔遊んだ作品が強く記憶に残っているほど、「あのとき感じたワクワクをもう一度味わいたい」という期待は自然と大きくなります。ただ、新作は新作であって、昔遊んだゲームとまったく同じ体験を与えてくれるわけではありません。そのズレが積み重なった結果、「最近のゲームは何か違う」という感覚につながっている可能性もあります。
そう考えると、今のゲーム評価が辛口になっている理由は、作品側だけにあるとは限りません。ゲームが進化したのと同じだけ、遊ぶ側の経験も積み重なり、期待するものも増えてきた。その結果として、昔なら気にしなかった部分まで気になるようになった、と考えることもできます。
今回は、なぜ私たちは昔よりゲームを厳しく見るようになったのか、その理由を少し掘り下げながら考えていきます。
最近のゲームユーザーは本当に「辛口」になったのか
先ほど触れたように、ゲームそのものの完成度は昔と比べてかなり高くなっています。それなのに、SNSやレビューサイトを眺めていると、新作が発売されるたびに不満や批判が目につき、「最近のゲーマーはずいぶん厳しくなったな」と感じることがあります。
ただ、これは単純にプレイヤーの性格が悪くなったとか、文句を言う人が増えたという話でもないと思います。長くゲームを遊んできた人ほど、それまでに経験した作品の数も増えているため、知らないうちに「これくらいはできて当然」という基準が自分の中に作られていくからです。
SNSによって不満の声が見えやすくなった
まず考えておきたいのが、SNSやYouTubeによってゲームに対する不満が以前とは比較にならないほど見えやすくなったことです。
昔も、買ったゲームが期待外れだったら「このゲーム微妙だったな」と友人同士で話すことはありました。ただ、その不満が届く範囲はせいぜい身近な人たちまでです。それが今では、発売当日に誰かが投稿した一つの不満が数時間で何万人もの目に入り、それをきっかけに同じような意見が次々と集まってくることも珍しくありません。
しかも、SNSでは強い言葉ほど目に留まりやすいところがあります。「普通に面白かった」という感想より、「期待していたのに最悪だった」「ここが致命的にダメ」といった意見の方が、つい続きを読みたくなる。その結果、実際には楽しんでいる人が大勢いたとしても、ゲーム全体が酷評されているように見えてしまうことがあります。
だからこそ、「最近のゲーマーは昔より辛口になった」と感じる現象の一部は、評価そのものが変わったというより、以前なら自分の周囲にしか存在しなかった不満まで見えるようになった結果とも考えられます。SNSや動画サイトの存在を抜きにして、現在と昔のゲーム評価をそのまま比較するのは難しいところです。
ゲームの進化とともにプレイヤーの基準も上がった
とはいえ、すべてをSNSの影響だけで説明することもできません。実際に私たち自身のゲームを見る目も、昔よりかなり厳しくなっていると思います。
たとえば、ロード時間が長い、移動が面倒、UIが使いにくい、戦闘のテンポが悪い。今ならレビューで普通に指摘される部分ですが、昔のゲームを振り返ってみれば、もっと不便な作品はいくらでもありました。それでも当時は、その不便さを理由にすぐ遊ぶのをやめることも少なかったはずです。
もちろん、昔のゲームだから許されていた部分もありますが、それ以上に大きいのは、プレイヤー側が「快適なゲームとはどういうものか」を知ってしまったことではないかと思います。
一度でもロードが速いゲームを経験すれば、長いロードは気になります。操作性に優れたアクションゲームを遊べば、別の作品でキャラクターの反応が鈍いだけでも違和感を覚えるようになる。オープンワールドで快適なファストトラベルを経験した後なら、延々と同じ場所を往復させられるゲームにストレスを感じるのも自然な話です。
ゲームが進化するほど、それまで「仕方がない」と受け入れていたものが欠点として見えるようになるわけですから、これは少し皮肉な話でもあります。ゲームの平均的な完成度が上がったからこそ、プレイヤーが求める最低ラインまで一緒に上がってしまったとも言えます。
「昔好きだったゲーム」が新作を評価する基準になっている
そして、長くゲームを遊んできた人ほど避けにくいのが、過去の名作との比較です。
特にシリーズ作品では分かりやすく、「昔のFFは面白かった」「以前の作品にあった○○を復活させてほしい」といった声を見かけることがあります。これは単なる懐古というより、その人にとって強烈に楽しかったゲーム体験がすでに存在しているため、新作にも無意識のうちに同じものを期待してしまうのだと思います。
ただ、ここには難しいところがあります。シリーズが昔と同じものを作り続ければ「変化がない」と言われる一方、新しい方向へ進めば「昔の方が良かった」と評価される可能性があるからです。
さらに厄介なのは、比較対象が同じシリーズだけとは限らないことです。アクションRPGなら『ELDEN RING』、オープンワールドなら『ゼルダの伝説』といった具合に、そのジャンルで強烈な体験を残した作品が基準になります。新しく発売されるゲームは、発売された瞬間から過去数十年分の名作と比べられる環境に置かれているわけです。
これは作る側にとって相当厳しい条件ですが、遊ぶ側も意識して比較しているとは限りません。「このゲームは70点くらいかな」と感じたとき、その70点という感覚の裏側には、それまで遊んできた何十本、何百本というゲーム体験が積み重なっています。
そう考えると、最近のゲーム評価が辛口に見えるのは、ゲームが悪くなったからというより、私たちの中に比較対象が増えすぎた結果でもあるのかもしれません。
そして、この「名作を知りすぎている」という状態こそ、現在のゲームを評価するときに思っている以上に大きな影響を与えているように感じます。
名作を知りすぎたことが、新作ゲームのハードルを上げている
ゲームを長く遊んでいると、それだけ自分の中に「面白いゲームとはこういうものだ」という基準が増えていきます。
これは考えてみれば当たり前のことで、初めてRPGを遊んだ人と、これまで何十本もRPGを遊んできた人では、同じ作品に触れたときの受け取り方が違ってきます。後者であれば、「この戦闘システムはあのゲームに似ている」「この展開は以前どこかで見た」と気づく機会も増えるため、新鮮さを感じるハードルまで自然と高くなっていきます。
だからこそ、今のゲームが昔より面白くないのかと考えると、そこは簡単には言い切れません。むしろ私たちの側が、あまりにも多くの「面白かったゲーム」を知ってしまったことも、新作に対する評価を厳しくしている理由の一つだと思います。
『ELDEN RING』や『ゼルダ』を遊んだ後の世界で新作は評価される
たとえば、新しいアクションRPGが発売されたとします。その作品を単体で見れば十分に面白かったとしても、すでに『ELDEN RING』のような作品を経験している人なら、戦闘や探索、フィールドの作り方まで無意識に比較してしまうことがあります。
オープンワールドも同じです。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のような作品が登場し、「あそこに行ってみたい」と思った場所へ実際に向かえる自由さや、自分なりの方法で攻略する面白さを知ってしまえば、その後に遊ぶ作品を見る目も変わります。
ここで厳しいのは、新作ゲームが同じ年に発売された作品だけと競っているわけではないことです。プレイヤーの記憶の中には、5年前、10年前、場合によっては20年以上前に遊んだゲームまで残っています。新作はそれらすべてと直接競う必要はないはずなのに、遊ぶ側の感覚としては、どうしても過去の名作が比較対象として出てきてしまいます。
しかも、名作から受けた影響は、その後のゲームにも受け継がれていきます。優れた操作方法や戦闘システムが登場すれば、それを参考にした作品が増え、やがてジャンル全体の標準になっていく。そうなると、最初に触れたときは画期的だった仕組みも、数年後には「できていて当然」のものとして受け取られるようになります。
作り手からすれば、かなり大変な状況です。過去の名作から学ばなければ古いと言われ、それを取り入れれば今度は既視感があると言われる。そのうえで新しい体験まで求められるのですから、ゲーム全体の水準が上がるほど一本の新作に課されるハードルも高くなっていきます。
新しいゲームなのに「昔感じた面白さ」を求めてしまう
もう一つ厄介なのが、私たちは新しいゲームを求めながら、同時に過去のゲームで味わった感情まで求めてしまうことです。
特に長く続いているシリーズでは、この傾向が強く出ます。昔遊んだ作品が自分にとって特別な一本になっていると、新作にも「あの頃と同じように夢中になりたい」という期待を持ってしまいます。シリーズが続いてほしい以上、変化や進化が必要なのは分かっている。それでも実際に大きく変わった作品を遊ぶと、「自分が好きだったものとは違う」と感じてしまうわけです。
ただ、ここで比較しているものは、本当にゲーム同士だけなのかという疑問もあります。
10代の頃に遊んだゲームであれば、学校から帰ってきて何時間も遊んだ記憶や、友人と攻略情報を話したこと、そのゲームの発売日を楽しみに待っていた時間まで含めて思い出になっているかもしれません。そうした体験と、大人になって仕事や生活の合間に遊ぶ新作ゲームを同じ物差しで比べれば、新しい作品の方が不利になるのも無理はありません。
つまり、「昔のゲームの方が面白かった」という感覚には、作品そのものの完成度だけではなく、そのゲームを遊んでいた頃の自分まで含まれている可能性があるということです。
だからといって、昔のゲームに対する評価が間違っているわけではありません。あの頃に夢中になったこと自体は間違いなく本物です。ただ、その感覚をそのまま現在の新作に求め続けると、どれだけ完成度の高いゲームが登場しても「何か違う」という評価になってしまうことがあります。
1万円近いゲームで失敗したくない気持ちも無視できない
そして、ゲームを厳しく評価してしまう理由として、もう一つ無視できないのが価格です。
最近の大型タイトルでは、通常版でも1万円近い価格になることがあります。もちろん、スーパーファミコン時代にも1万円を超えるソフトは珍しくなかったので、「昔に比べてゲームだけが極端に高くなった」と単純に言える話ではありません。ただ、今のユーザーが購入するときに「せっかく1万円近く払うなら失敗したくない」と考えるのは、ごく自然な感覚だと思います。
そうなると、発売前にレビューを確認し、SNSで評判を調べ、動画を見て自分に合うゲームなのか判断するようになります。これは買い物として考えれば合理的ですが、その一方で、遊ぶ前から「欠点はないか」と確認する姿勢にもつながりやすくなります。
さらに、実際に購入したゲームが自分に合わなかった場合、「自分には合わなかった」で終わらせるのではなく、「1万円近く払ったのに」という感情が加わることで、不満が強くなることもあります。ゲームは最後まで遊ばなければ自分に合うか分からない場合もありますし、他人が90点を付けた作品でも自分には刺さらないことがある。この部分だけは、どれだけ事前に情報を集めても完全には避けられません。
だからこそ、少しだけ昔の遊び方を思い出してみるのも悪くない気がします。
子どもの頃は、新しいゲームを手に入れたら「このゲームは何点なのか」と考える前に、とりあえず遊んでいたはずです。多少出来の悪いゲームを引いてしまっても、「なんだこれ」と笑いながら遊んで、それ自体が一つの思い出になったこともありました。ゲームを評価することより、ゲームで楽しい時間を過ごすことの方が先にあったわけです。
もちろん、大人になった今、すべてのゲームをそんな感覚で遊ぶのは難しいと思います。それでも、過去の名作と比べ、価格に見合っているかを考え、細かな欠点まで探しながら遊ぶことが当たり前になっているのなら、私たち自身がゲームを楽しむためのハードルを上げている部分もあるのかもしれません。
グラフィックはもう進化しなくてもいいのか?
ゲームに求める基準が上がったという話をすると、避けて通れないのがグラフィックです。
新しいゲーム機が登場するたびに映像は綺麗になり、最近ではキャラクターの表情や肌の質感、遠くに見える景色まで驚くほど細かく描かれるようになりました。その一方で、「もう十分綺麗なのだから、これ以上グラフィックを進化させなくてもいい」「映像にお金をかけるくらいならゲーム内容を充実させてほしい」という意見を見かけることもあります。
言いたいことは分かります。実際、グラフィックが綺麗だからといって、それだけでゲームが面白くなるわけではありません。ただ、だからといって「ゲームにグラフィックは重要ではない」とまで言い切ってしまうと、少し話が違ってくるように感じます。
「グラフィックは必要ない」という意見に感じる違和感
そもそも、ゲームにおける「グラフィックが良い」という言葉自体、人によってイメージしているものがかなり違います。
グラフィックと聞いて、『Horizon Forbidden West』のようなフォトリアル寄りの映像を思い浮かべる人もいれば、『ゼルダの伝説』や『スプラトゥーン』のような作品を思い浮かべる人もいます。この時点ですでに、「グラフィックはゲームの面白さに必要なのか」という議論の前提がズレていることも珍しくありません。
たとえば、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を挙げて、「これだけ面白いのだからゲームに高品質なグラフィックは必要ない」と考えることもできます。ただ、実際にあの世界を歩いてみれば、遠くに見える山や草原、時間帯によって変わる光の表現まで含めて、景色そのものが冒険したくなるように作られています。
つまり、フォトリアルではないからグラフィックに力を入れていない、という話ではないんですよね。むしろ、写実性とは違う方向で「どう見せればこの世界を魅力的に感じてもらえるのか」が相当考えられているゲームだと思います。
ゲームにグラフィックが必要かどうかを考えるなら、単純な解像度やリアルさだけではなく、そのゲームが表現したいものを映像によってどれだけ伝えられているかまで含めて考える必要があります。
フォトリアルだけがグラフィックの進化ではない
ここを切り分けると、「これ以上グラフィックは進化しなくてもいい」という話も少し見え方が変わってきます。
確かに、人物の毛穴まで見えるようにするとか、現実の風景と見分けがつかないほど写実的にするといった方向だけを考えれば、「そこまで必要なのか」と感じる人が出てくるのも分かります。ただ、ゲームのグラフィックが進化する方向は、それだけではありません。
分かりやすいところではHD-2Dもそうです。昔ながらのドット絵を捨てて実写に近づけるのではなく、ドット絵の良さを残しながら、光や奥行き、エフェクトなどを組み合わせて現代的に見せています。昔の表現を残したまま「もっと綺麗に見せる」という進化も、立派なグラフィックの進化です。
そう考えると、グラフィックの進化を「どこまで現実に近づけられるか」だけで語る必要はありません。リアルな方向へ進むゲームがあってもいいし、アニメ調やドット絵を突き詰める作品があってもいい。それぞれが自分たちのゲームに合った見せ方を追求していくこと自体が、グラフィックの進化なのだと思います。
『ゼルダ』や『スプラトゥーン』も「綺麗に見せる技術」の上に成り立っている
その意味では、『スプラトゥーン』もかなり分かりやすい例です。
あのゲームをフォトリアルにしたところで、おそらく今より魅力的にはなりません。むしろ色鮮やかなインクやキャラクターのデザイン、ステージ全体の視認性といった現在の方向性だからこそ、『スプラトゥーン』らしさが成立しています。
しかも、単にカラフルで可愛らしいだけではなく、シューターとして何が起きているのか分かりやすく見えるように作られています。どこが自分たちのインクで塗られているのか、敵がどこから来たのか、戦況がどうなっているのか。そうした情報を瞬間的に把握しなければならないゲームだからこそ、見やすさそのものがゲーム性にも関わっています。
これは『ゼルダ』にも通じるところがあります。景色が美しいだけでなく、遠くに気になるものが見えて「あそこまで行ってみよう」と思えること自体が探索の動機になります。グラフィックがゲームプレイとは別の場所にあるのではなく、遊びそのものを支える役割を持っているわけです。
こうして考えると、「ゲームは面白ければグラフィックなんてどうでもいい」という言い方には、やはり少し違和感があります。ゲームによって重要度に差はあっても、映像として画面に表示される以上、グラフィックもゲーム体験を構成している一つの要素だからです。
大切なのはゲームに合ったビジュアルを作ること
一方で、すべてのゲームが最高峰のフォトリアルを目指す必要もありません。
重厚な物語や現実感のある世界を描く作品なら、細かな表情や風景の説得力がゲーム全体の価値を押し上げることがあります。反対に、『スプラトゥーン』のような作品を無理に写実的にしてしまえば、本来持っていた魅力を失ってしまう可能性もあります。実際、作品の特徴に合わせてフォトリアル寄りにするのか、別の表現を選ぶのかを考えることが重要だという話につながっています。
結局のところ、「グラフィックは重要か」という問いに対して、必要か不要かの二択で答えること自体が少し乱暴なのかもしれません。
求められているのは、ひたすら解像度を上げたり現実に近づけたりすることではなく、そのゲームを一番魅力的に見せられる表現を選ぶことです。そして、その選択肢が増えてきたことも、これまでグラフィック技術が進化してきた結果だと考えれば、「もう進化しなくてもいい」と簡単に切り捨てられるものでもないと思います。
ただ、ここでも一つ面白いことがあります。優れた表現やシステムが生まれ、それが多くのゲームへ広がっていくと、今度はプレイヤー側から「最近こればかりじゃないか」という声が出始めます。
その分かりやすい例が、ここ数年のアクションゲームで存在感を増している「パリィ」です。
「最近はパリィゲーばかり」と感じるのも同じ問題かもしれない
グラフィックの話と少し似ていますが、ゲームの評価が厳しくなった背景を考えるうえで、もう一つ気になるのが「以前は新鮮だったものに慣れてしまう」という問題です。
最近のアクションゲームを遊んでいると、敵の攻撃にタイミングを合わせて弾き、そこから反撃につなげる、いわゆるパリィを軸にした戦闘を目にする機会がかなり増えました。パリィそのものは以前から存在していましたし、昔の『ロマンシング サ・ガ2』にも「パリイ」という技が登場していたので、決して新しい言葉でもシステムでもありません。
それでも現在のアクションゲームにおけるパリィを考えると、やはり『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』以降、その存在感が一段と大きくなったように感じます。
『SEKIRO』以降、攻撃を弾くシステムは一気に存在感を増した
もともと『DARK SOULS』などにもパリィはありましたが、当時は戦闘の中心というより、上手く使えれば大きなチャンスを作れるテクニカルな選択肢という印象が強かったと思います。
そこから『SEKIRO』では、敵の攻撃を受け流す「弾き」が戦闘の中心に置かれました。
これが面白かったのは、敵の攻撃を防ぐ行為そのものが攻めにつながっていたことです。一般的なアクションゲームであれば、攻撃されたら回避する、あるいはガードして次の攻撃を待つという流れになりがちですが、『SEKIRO』では敵の懐に居続け、刀を打ち合わせながら相手の体幹を崩していく。守っているはずなのに戦闘の主導権を握っているような感覚があり、ここに独特の気持ちよさがありました。
一方、『ELDEN RING』ではパリィが戦闘のすべてではなく、多数用意された攻略手段の一つとして存在しています。上手く使える人は使えばいいし、苦手なら別の戦い方を選ぶこともできる。このあたりを見るだけでも、同じフロム・ソフトウェア作品の中で、パリィに持たせる役割がかなり違うことが分かります。
つまり、本来パリィという仕組み自体が悪いわけではありません。上手く使えば、敵の攻撃をただ避け続ける戦闘とは違った駆け引きを生み出せる、かなり優秀なシステムです。
面白いシステムが定番化すると「またこれか」に変わっていく
ところが、あるゲームで優れた仕組みが生まれれば、当然ながら後に続く作品もそこから影響を受けます。
実際、現在ではさまざまなアクションゲームにパリィやジャストガードに近いシステムが採用されています。アクションRPG以外にもその考え方は広がっており、タイミングよく入力して攻撃を防ぎ、そこから有利な状況を作るという仕組み自体は珍しいものではなくなりました。資料内でも『Clair Obscur: Expedition 33』のように、パリィや回避の要素を別ジャンルへ落とし込んだ作品について触れられています。
ここで起こるのが、先ほどまで話してきた「プレイヤーの基準が上がる」という現象です。
最初に体験したときは、「敵の攻撃を弾いて反撃するのが気持ちいい」と感じていたものが、似た仕組みを何本も経験すると、それだけでは驚かなくなってきます。さらに同じようなゲームが続けば、今度は「最近のアクションゲーム、パリィばかりじゃないか」という不満まで出てくるわけです。
これは少し不思議な話で、システムそのものがつまらなくなったわけではありません。むしろ面白かったからこそ多くのゲームに取り入れられ、その結果としてプレイヤーが慣れてしまった、と考えた方が自然です。
先ほど触れたグラフィックについても同じで、技術が進歩して綺麗な映像が当たり前になれば、それだけでは評価されにくくなります。ロード時間が短くなるのが当たり前になれば、今度は少し長いだけでも気になる。パリィのような優れた戦闘システムが普及すれば、そこにもさらに一工夫が求められるようになります。
ゲームが進化するたびにプレイヤーもそれに慣れ、次はもっと上を求める。この繰り返しによって、ゲームを評価するハードルは少しずつ高くなっているのかもしれません。
求められているのは新しいシステムより新しいゲーム体験なのか
では、パリィを使わなければ新鮮なゲームになるのかというと、もちろんそんな単純な話でもありません。
回避、ガード、パリィ、弱点攻撃といった一つ一つの仕組みだけを見れば、アクションゲームでまったく新しいものを生み出すこと自体、かなり難しくなっています。長いゲームの歴史の中で、基本となるアイデアはすでに数多く試されているからです。
だからこそ重要になってくるのは、「何のシステムを使ったか」よりも、それを組み合わせてどんな体験を作ったのかという部分だと思います。
同じパリィでも、『SEKIRO』のように戦闘全体を成立させる中心的な仕組みにするのか、『ELDEN RING』のように数ある攻略方法の一つとして用意するのかで、プレイヤーが受ける印象はまったく変わります。
それなのに、私たちはゲームを何本も経験するうちに、つい分かりやすい共通点だけを拾って「またパリィか」「またオープンワールドか」「またソウルライクか」と判断してしまうことがあります。
もちろん、本当に似たような作品が続けば飽きるのは当然です。ただ、新しいゲームを遊んだ瞬間から過去の作品に当てはめて評価してしまうと、そのゲームなりの違いを楽しむ前に、自分から新鮮さを削ってしまうこともあります。
結局ここでも、ゲームを作る側だけではなく、遊ぶ側の経験が評価に影響しているという話に戻ってきます。
名作が新しい遊びを生み、それが広がって定番になり、プレイヤーが慣れた頃には「もう見飽きた」と言われる。そうやって考えてみると、現在のゲームが求められている水準は、私たちが思っている以上に高くなっているのかもしれません。
パッケージ版の縮小で失われるものについても考えたい
ここまでゲームの評価や進化について考えてきましたが、もう少し視点を広げると、ゲームを取り巻く環境そのものも大きく変わっています。その一つが、パッケージ版からダウンロード版への移行です。
ゲームを買ったら箱を開けて、ディスクやカートリッジを本体に入れて遊ぶ。長くゲームに触れてきた人にとっては当たり前だった光景ですが、今ではダウンロード版だけでゲームを購入している人も珍しくありません。
実際、ディスク販売が縮小していく流れに対しては強い反発もあります。ただ、これについては「パッケージ版を残すべき」「ダウンロード版だけで十分」という二択で考えるよりも、ゲームという文化が変化していく中で何が失われるのか、一度整理して考えた方がいい気がします。
ダウンロード販売が中心になる流れ自体は止めにくい
まず現実的な話をすると、ゲーム販売のデジタル化が進んでいく流れそのものを止めるのは難しいと思います。
ダウンロード版なら発売日に店へ行く必要もありませんし、事前にダウンロードしておけば発売直後から遊べます。ディスクを入れ替える必要もなく、複数のゲームを本体の中に入れておけば、その日の気分に合わせてすぐ切り替えられる。この便利さに慣れてしまうと、パッケージ版へ戻りにくくなるのも分かります。
一方で、すべてのゲームが最初からパッケージ販売を前提としているわけでもありません。特にインディーゲームではダウンロード専売も珍しくなく、デジタル販売があるからこそ世に出せる作品もあります。パッケージを製造し、流通させ、店舗へ並べる必要がないことは、小規模な開発チームにとって大きな意味を持つはずです。資料内でも、もともとパッケージを販売していないインディー作品までディスク販売終了の議論と結びつけることには違和感がある、という話が出ています。
そう考えると、ダウンロード販売そのものを否定する必要はありません。ゲームを買う側からしても便利ですし、作る側にとっても作品を届ける選択肢を広げてきた仕組みだからです。
ただ、それと「だからパッケージ版はなくなっても構わない」という話は、少し分けて考えた方がいいと思います。
それでもゲームを「物として所有する文化」には価値がある
パッケージ版には、ゲームを遊ぶためのデータとは別に、「物として持っている」という感覚があります。
これは実用性だけで考えると説明しにくいところです。ディスクをケースから取り出して本体へ入れるより、メニュー画面からゲームを選んだ方が明らかに楽ですし、ケースを並べるには場所も必要になります。それでも昔遊んだゲームのパッケージを久しぶりに手に取ると、「やっぱりこれはこれでいいな」と感じることがあります。
特にファミコンやスーパーファミコンの頃は、ゲームを遊んでいる間もカートリッジそのものが本体に刺さっていました。ゲームを遊ぶという行為と、ゲームという物を所有している感覚が、今より近かったのかもしれません。
ディスクになってからは本体の中へ入ってしまうので、遊んでいる最中に見る機会は減りました。それでもケースを開けてディスクを眺めたり、棚に並んだタイトルを見て「久しぶりにこれを遊んでみるか」と思ったりする。そうした体験まで含めると、パッケージは単なるゲームデータの入れ物ではなかったように感じます。
もちろん、こうした感覚をまったく必要としない人もいます。それはそれで自然ですし、ダウンロード版の方が便利だと感じるなら、無理に物として持つ必要もありません。
ただ、長い間ゲームと一緒に存在してきた文化を考えると、パッケージ版を残してほしいと感じる人がいること自体は理解できます。資料内でも、PlayStationとゲームが何十年も歩んできた歴史を考えれば、まだその文化を残してもいいのではないか、という見方が示されています。
便利さと引き換えにゲーム文化から消えていくもの
こうした変化は、パッケージ版だけの話でもありません。
説明書がほとんど付かなくなったこともそうですし、ゲームショップへ行って棚を眺めながら何を買うか悩む機会も以前より減りました。発売日に店へ行き、買ったばかりのゲームを持って帰る時間まで含めて楽しみにしていた人なら、ゲームを購入するという体験自体がかなり変わったと感じるはずです。
とはいえ、昔の方が良かったから全部元に戻すべきだ、と言いたいわけではありません。今の方が便利になった部分はいくらでもありますし、ダウンロード販売によって遊べるゲームの幅が広がったことも間違いありません。
大事なのは、便利になることと、何かが失われることは同時に起こり得るという点です。
そして、ここまで考えてくると、この記事の最初に触れた「昔よりゲームを楽しめなくなったのか」という話とも、少しつながってくるように思います。
昔と今では、ゲームの内容だけが変わったわけではありません。ゲームを買う方法も、情報を集める方法も、他人の評価を知る方法も変わりました。さらに私たち自身も年齢を重ね、何本ものゲームを経験しています。
だとすれば、「昔のゲームは面白かったのに、最近のゲームは楽しめない」と感じたとき、比べているのは本当にゲームの中身だけなのか。そこは一度考えてみてもいいのかもしれません。
もしかすると大きく変わったのは、ゲームそのものだけではなく、私たちの「ゲームとの付き合い方」なのだと思います。
もしかすると、ゲームではなく「遊び方」が変わったのかもしれない
ここまで考えてきて、結局いちばん気になるのはここです。
ゲームのグラフィックは昔とは比較にならないほど進化し、操作性も改善され、遊べる作品の数も増えました。それなのに「昔の方がゲームを楽しめていた」と感じることがあるのなら、変わったのはゲームだけではなく、遊んでいる私たち自身なのかもしれません。
もちろん、大人になれば好みも変わりますし、何百本とゲームを経験すれば簡単には驚かなくなります。ただ、それとは別に、ゲームを遊ぶときの「目的」そのものが昔とは少し変わっているようにも感じます。
子どもの頃は一本のゲームを楽しむこと自体が目的だった
子どもの頃を思い返すと、新しいゲームを好きなだけ買える人は、それほど多くなかったと思います。
誕生日やクリスマスに買ってもらった一本を何か月も遊んだり、友人から借りたゲームを夢中になって進めたり、ときにはそれほど評判の良くない作品でも手元にあるから遊び続けたりする。今のように数百本のゲームへ簡単にアクセスできる環境ではなかったからこそ、一本のゲームと付き合う時間も自然と長くなっていました。
何より違うのは、ゲームを始める時点で「この作品は面白いのか」と細かく判定しようとしていなかったことです。
新しいゲームが手元に来た。それだけで、とりあえず起動してみる。よく分からないところがあれば試行錯誤して、難しい敵が出てきたら何度も挑戦する。少しくらい操作しにくくても、それを含めて遊び方を覚えていきました。
当時は「ストーリーを早く最後まで見たい」「効率よくクリアしたい」という目的よりも、ゲームを遊んでいる時間そのものを楽しもうとする気持ちの方が強かったのかもしれません。
だから、多少出来の悪いゲームを引いてしまったとしても、それはそれで友人との話のネタになったりします。「このゲーム、とんでもないな」と笑いながら遊んだ経験まで含めて、ゲームの思い出になっていたわけです。
今は評価・効率・比較を意識しながらゲームを遊んでいる
それに対して今は、ゲームを始める前から大量の情報に触れられます。
メタスコアはいくつなのか、Steamでは好評なのか、クリアまで何時間かかるのか、取り返しのつかない要素はあるのか。攻略情報を調べようと思えばすぐ見つかりますし、購入するか迷ったときにはYouTubeで実際のプレイ映像まで確認できます。
便利になったのは間違いありません。ただ、便利になりすぎたことで、ゲームを遊ぶ前から「この作品から何を得られるのか」を考える機会も増えました。
さらに社会人になれば、自由に使える時間にも限りがあります。平日の夜に2時間遊べるとして、その時間をあまり面白くないゲームに使いたくない。積んでいるゲームが何本もあれば、「これを続けるくらいなら別のゲームを始めた方がいいか」と考えることもあります。
そうなると、ゲームを遊んでいる最中にも判断が入ってきます。
戦闘が少し単調なら「この状態があと30時間続くのか」、移動に時間がかかれば「ファストトラベルをもっと便利にしてほしい」、ストーリーの導入が長ければ「いつ面白くなるんだろう」と考えてしまう。昔ならそのまま受け入れていた部分でも、今は時間に対するリターンまで意識するようになります。
これは別に悪いことではありません。限られた時間で遊ぶ以上、自分に合うゲームを選びたいと思うのは自然です。
ただ、「このゲームを楽しもう」として遊ぶことと、「このゲームは自分の時間を使う価値があるのか」と評価しながら遊ぶことでは、同じ作品でも見え方がかなり変わってくると思います。
後者の状態では、面白い部分を見つけるより先に、不便なところや期待を下回った部分へ意識が向きやすくなります。そこでSNSを開いて同じ不満を持っている人を見つければ、「やっぱりこのゲームはダメなんだ」と評価まで固まってしまうことがあります。
ゲームを見る目が肥えたことだけではなく、私たち自身がゲームを「評価しながら遊ぶ」ようになったことも、昔より辛口になった理由の一つなのかもしれません。
面白いゲームを探すより「ゲームを面白がれる自分」を取り戻したい
もちろん、だからといって、つまらないゲームまで無理に楽しむ必要はありません。
1万円近く払って明らかに自分に合わないゲームを引いてしまえば、残念に思うのは当然ですし、操作性やストーリーに問題があるなら、それを批判すること自体もおかしなことではありません。
ただ、せっかく買ったゲームが合わなかったときに、最後まで欠点を探しながら遊んで腹を立て続けるより、「これはこれで変なゲームだったな」と笑って終われた方が、自分にとっては少し得なのではないかとも思います。
そして、この感覚は意外と大事なのかもしれません。
私たちはゲームをたくさん知るようになったからこそ、より完成度の高い作品を選べるようになりました。その一方で、面白いゲームを見つけるための条件も増えています。「ストーリーが良くて、戦闘も面白くて、テンポも良くて、グラフィックも綺麗で、ボリュームも十分で……」と条件を積み上げていけば、それらをすべて満たすゲームなんて簡単には見つかりません。
もしかすると、昔夢中になれた理由は、遊んでいたゲームが今より優れていたからだけではなく、自分の側に「このゲームで遊んでみよう」という余白が残っていたからなのかもしれません。
分からないことがあってもすぐ攻略を見ず、とりあえず試してみる。多少不便でも、それを含めて遊んでみる。SNSで世間の評価を確認する前に、自分がどう感じたのかを一度考えてみる。
そんな遊び方に少し戻るだけでも、新しいゲームとの付き合い方は変わってくる気がします。
結局、昔とまったく同じ感覚に戻ることはできません。これまで遊んできたゲームを忘れることもできませんし、子どもの頃と同じだけ自由な時間を持てるわけでもありません。
それでも、ゲームを起動した瞬間から採点する必要はないはずです。
次に遊ぶ一本に「人生を変えるほどの神ゲーであってほしい」と期待するのではなく、まずはそのゲームの中で何が面白いのかを探してみる。そうやってゲームを面白がる余地を少し残しておくことが、昔のようにゲームへ夢中になるための一つのきっかけになるのかもしれません。
まとめ|ゲームがつまらなくなったのか、私たちが厳しくなったのか
ここまで考えてみると、「昔よりゲームを楽しめなくなった」と感じる理由を、最近のゲームの出来だけに求めるのは少し違うように思います。
もちろん、発売されるゲームすべてが面白いわけではありません。期待して買った作品が合わないこともあれば、操作性やゲームバランスに不満を感じることもありますし、「これはさすがに惜しい」と思う作品だってあります。
ただ一方で、私たちは昔とは比べものにならないほど多くのゲームを知るようになりました。
過去に遊んだ名作が自分の中に残っているから、新作を遊べば自然と比較してしまう。快適なゲームを経験すれば、それまで気にならなかった不便さにも気づくようになりますし、画期的だったシステムも何度か経験すれば当たり前になります。
しかも今は、SNSや動画サイトを開くだけで、ほかのプレイヤーが感じた不満まで簡単に目に入ってきます。ゲームを起動する前から評価を知り、プレイ中にも過去の名作と比べ、遊び終われば点数を付ける。そうした環境に長くいるうちに、いつの間にか「ゲームで遊ぶこと」と「ゲームを評価すること」がかなり近いものになってしまったのかもしれません。
そう考えると、ゲームの評価が昔より辛口になったこと自体は、それほど不思議な現象でもありません。
むしろ、ゲームという娯楽が何十年もかけて進化してきたからこそ、私たちの見る目も肥えました。グラフィックが綺麗なのは当たり前、操作が快適なのも当たり前、そのうえで新しい体験まで求める。これは贅沢な話にも見えますが、それだけ過去に素晴らしいゲームがたくさん生まれてきた証拠でもあります。
ただ、個人的には少しだけ気をつけたいことがあります。
面白いゲームを求めるあまり、ゲームを遊んでいる最中まで「これは何点なのか」「過去のあの作品より優れているのか」と考え続けてしまえば、せっかく目の前にある面白さを見落としてしまうこともあります。
子どもの頃は、新しいゲームを手に入れたら、それだけでとりあえず遊んでいました。多少不便でも試行錯誤し、よく分からないゲームならよく分からないなりに遊び、それでもダメなら「なんだこのゲーム」と笑って終わる。少なくとも最初から欠点を探すためにコントローラーを握っていたわけではなかったと思います。
だから、昔のようにゲームを楽しみたいなら、昔のゲームに戻ることだけが答えではないのかもしれません。
過去の名作と比べる前に、そのゲームが何を面白くしようとしているのかを見てみる。世間の評価を確認する前に、自分が遊んでどう感じたのかを大事にする。そして、ときには効率や完成度を気にせず、その世界をぶらぶらしてみる。
そんな余白が少しあるだけでも、ゲームとの付き合い方は変わってくると思います。
ゲームが昔よりつまらなくなったのか、それとも私たちが昔より厳しくなったのか。おそらく、どちらか一方だけで説明できる話ではありません。
ただ、ゲームそのものがこれだけ進化しているのに、「昔ほど楽しめない」と感じるのであれば、次の神ゲーを探し続けるだけではなく、自分がいつからゲームを評価しながら遊ぶようになったのか、一度振り返ってみてもいい気がします。
そして次に新しいゲームを始めるときくらいは、「このゲームは何点だろう」と考えるより先に、まずはその一本を遊んでみる。
案外、それくらいの距離感の方が、昔のように時間を忘れてゲームを楽しめるのかもしれません。
ゲームとは少し違った「物語」を楽しみたい方へ
このブログではゲームを中心に扱っていますが、私は別サイトでも、作品のストーリーやキャラクター、印象に残ったポイントなどを掘り下げながらレビューしています。
ゲームとは扱っているジャンルが異なるものの、「作品をただ消費するのではなく、どこが面白かったのかまでじっくり見てみたい」という方であれば、こちらも楽しめるかもしれません。
興味がある方は、別サイトの「アダルトナラティブ研究所」もご覧ください。
※リンク先は18歳以上を対象としたコンテンツを扱う別サイトです。18歳未満の方はアクセスをご遠慮ください。
コメント Comments
コメント一覧
コメントはありません。
トラックバックURL
https://nopo-log.com/why-games-feel-less-fun/trackback/