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【実は戦うRPGだった】『どうぶつの森』はなぜ社会現象になった?常識を捨てた開発秘話

【実は戦うRPGだった】『どうぶつの森』はなぜ社会現象になった?常識を捨てた開発秘話

『どうぶつの森』と聞いて、まず思い浮かぶのはどんな遊びですか?

川辺でのんびり魚を釣ったり、虫を追いかけたり、お気に入りの家具を集めて自分だけの部屋を作ったり。ときには住民と話をするだけで一日が終わることもあります。

しかも、このゲームには「魔王を倒す」「世界を救う」といった明確なゴールがありません。何をして過ごすのかはプレイヤー次第で、極端にいえば何もしなくてもいい。この自由な暮らしこそ、『どうぶつの森』というシリーズを象徴する魅力になっています。

今では当たり前に感じるゲーム性ですが、初代『どうぶつの森』が登場した2001年当時を考えると、かなり変わった存在でした。

敵と戦って強くなるわけでもなければ、ステージを順番に攻略するわけでもない。それなのに、毎日のようにゲームを起動してしまう。

「今日はどんな魚が釣れるかな」「あの住民に話しかけてみよう」「部屋を少し模様替えしたい」と、自分で小さな目的を見つけながら暮らしていくゲームだったのです。

さらに面白いのが、ゲームの中にも現実と同じように時間が流れていること。

朝に遊べば村も朝になり、夜に起動すれば辺りは暗くなっています。季節も現実の暦と連動して変化するため、「ゲームを進めている」というより、本当にもう一つの場所で生活しているような感覚が生まれました。

こうして考えると、『どうぶつの森』は最初から「戦わないゲーム」という明確な思想を持って生まれたようにも見えます。

ところが、実際の開発はまったく違います。

現在のようなのんびりした生活ゲームになる前、『どうぶつの森』には動物たちの力を借りながらダンジョンを攻略する、冒険RPGとして作られていた時期がありました。

しかも、単に企画段階で「RPGも候補にあった」という程度の話ではありません。

動物に命令を出して戦う仕組みまで検討され、春・夏・秋・冬を象徴する4つの島には、それぞれダンジョンが用意される予定でした。今の『どうぶつの森』からは想像しにくいほど、本格的に「冒険するゲーム」を目指していたわけです。

では、なぜそこから戦闘もダンジョンも消え、村で気ままに暮らすゲームへ変わったのか。

実はその裏には、開発チームが当初思い描いていたゲームを、そのままでは作れなくなるほど大きな出来事がありました。

実は「動物を仲間にして戦うRPG」として開発されていた

現在の『どうぶつの森』しか知らないと、「戦うRPGだった」と聞いても、なかなかイメージできないかもしれません。

ところが開発初期に考えられていたのは、村で魚を釣ったり家具を集めたりするゲームではなく、広大なフィールドを冒険するRPGに近い作品でした。しかも、そこで重要な役割を担う予定だったのが、現在では村の住民として暮らしている「動物」という存在です。

プレイヤー自身はそれほど強い存在ではなく、さまざまな動物を仲間にし、その能力を借りながらダンジョンを攻略していく。開発中には一人につき一匹の動物を連れて歩き、ボタン操作によって命令を出すような簡易的な戦闘システムまで検討されていました。

今でこそ、動物たちと会話をしたり、手紙を送ったりしながら関係を深めていくことがシリーズの大きな魅力になっています。

しかし、この時点では「一緒に暮らす住民」というより、冒険を助けてくれる仲間として動物が存在していたわけです。

春夏秋冬の4つの島を冒険するゲームだった

さらに驚くのが、当初考えられていた世界の構造です。

舞台には春・夏・秋・冬を象徴する4つの島が用意され、それぞれにダンジョンを配置する構想がありました。プレイヤーは動物たちの能力を借りながら各地を冒険し、ダンジョンを攻略していく。現在の『どうぶつの森』とは、ゲームの目的そのものが違っていたことになります。

とはいえ、すべてが現在のシリーズとかけ離れていたわけでもありません。

むしろ興味深いのは、このRPG時代から後の『どうぶつの森』につながる発想がすでに存在していたことです。

当時、任天堂が活用しようとしていたのが、NINTENDO64の周辺機器として開発された「64DD」でした。その大容量記憶や内蔵時計を利用し、複数のプレイヤーが同じ世界へ別々の時間に入り、自分が行ったことが後から遊んだ人にも影響する仕組みが考えられていたのです。

つまり、全員が同じ時間に集まって遊ぶ必要はありません。

自分がいない間にも誰かがその世界で行動し、次にゲームを始めると何かが変わっている。今の言葉なら非同期型のマルチプレイに近い考え方ですが、この**「同じ世界で時間差で誰かとつながる」感覚は、形を変えながら完成版にも受け継がれていきました。**

ここが、『どうぶつの森』の成り立ちを考えるうえでかなり重要です。

開発チームが最初から「魚を釣って、家具を集めて、のんびり暮らすゲームを作ろう」と考えていたわけではありません。もともとは冒険RPGを作ろうとして、その中に「動物」「時間」「複数の人が同じ世界に関わる」というアイデアが存在していた。

そして、このRPGを成立させる前提だった64DDをめぐる状況が変わったことで、企画そのものを大きく作り直さなければならなくなります。

結果として、その方向転換が『どうぶつの森』を現在の姿へ近づける大きなきっかけになりました。

64DDの失敗が『どうぶつの森』をまったく別のゲームに変えた

もし当初の計画がそのまま進んでいたら、私たちが知っている『どうぶつの森』は生まれていなかったかもしれません。

大きな転機になったのが、開発の前提となっていた64DDをめぐる状況でした。

もともと開発チームは、64DDが持つ大容量の記憶領域や内蔵時計を利用して、複数のプレイヤーが時間差で同じ世界に入り、それぞれの行動が残っていくゲームを作ろうとしていました。ところが64DDの普及が進まず、企画は通常のNINTENDO64向けROMカセットへ切り替えられることになります。

当然、使える容量や機能も変わります。

広大な世界を用意して、春・夏・秋・冬の4つの島を冒険し、それぞれにあるダンジョンを攻略する。当初考えていたゲームを、そのまま実現することが難しくなってしまったのです。

そこで開発チームが選んだのは、無理にRPGを縮小して完成させる方法ではありませんでした。

戦闘もダンジョンも思い切って捨て、ゲームそのものを作り直したのです。

4つあった島は一つの小さな村へまとめられ、戦闘やダンジョン攻略といった冒険要素もなくなりました。一方で、「動物たちがいる世界」「複数の人が時間差で関わる」という企画の根っこにあった部分は残されています。

ここが面白いところで、ハードの制約によって作りたかったものを諦めた結果、単純にスケールの小さなRPGになったわけではありません。

むしろ「広い世界を冒険できないなら、小さな村で暮らすこと自体を遊びにできないか」と、ゲームの面白さを置く場所そのものが変わっていきました。

さらに、NINTENDO64本体には当初想定していた時計機能がありません。それでもリアルタイムというアイデアまで捨てるのではなく、ゲームカートリッジ側に独自の時計チップを搭載することで、現実と同じ時間が流れる仕組みを残しました。

今では「夜に遊べば村も夜になる」「季節によって景色や生き物が変わる」という仕組みは、『どうぶつの森』では当たり前のものです。

しかし、その当たり前は最初から完成形として用意されていたわけではなく、企画を大幅に変更しなければならない状況になっても、開発チームが残そうとしたアイデアの一つでした。

そして変わったのは、ゲームシステムだけではありません。

初期段階では動物たちも現在のような姿ではなく、4本足で歩くデザインが考えられていました。それが企画の方向転換に合わせて、2本足で歩き、言葉を交わしながら村で暮らす「住民」へと変化していきます。

RPGだった頃には冒険を助けてくれる存在だった動物が、一緒に暮らす相手へ変わった。

広大なフィールドは小さな村になり、ダンジョン攻略は日々の生活になった。それでも「動物」「時間」「誰かとのつながり」という最初からあった要素は消さず、別の遊びとして組み直されています。

こうして見ると、『どうぶつの森』は単純にRPGの企画を捨てて生まれたゲームではありません。

作れなくなった部分を削っていく過程で、本当に残したかった面白さだけが浮かび上がってきたゲームだったともいえます。

そして、その方向転換によって生まれた「小さな村で暮らす」という発想から、当時のゲームではかなり珍しかった、クリアする必要すらない遊び方が形になっていきます。

「何もしなくていい」を面白さに変えた3つの発明

戦闘もダンジョンもなくなった『どうぶつの森』ですが、それだけではゲームとして成立しません。

敵を倒す必要もなければ、次に攻略するステージもない。エンディングを目指して物語を進める必要さえないとなれば、「それで何が面白いの?」と思うのも自然です。

そこで『どうぶつの森』が変えたのは、遊びの内容だけではありませんでした。

ゲーム側から与えられた目的を達成するのではなく、自分で今日やりたいことを見つける。

この考え方を中心に、現実とつながる時間や、他のプレイヤー、動物たちとの関係を組み合わせたことで、「何もしなくてもいいのに、なぜか毎日遊びたくなる」という独特のゲームが形になっていきます。

クリアする必要がない「目的のないゲーム」

2001年当時のゲームを考えると、『どうぶつの森』の遊び方はかなり異質でした。

敵を倒して先へ進む、キャラクターを強くする、ステージをクリアする。そうした分かりやすい目標があるゲームが多い中で、『どうぶつの森』には「これを達成すればクリア」というゴールがありません。

代わりに用意されているのが、虫取りや魚釣り、化石や美術品の収集、服や家具集め、そして自分の家の模様替えといった、日常の延長にあるような遊びです。

しかも、それらを全部やる必要はありません。

魚釣りが好きなら一日中釣っていてもいいし、家具に興味があるなら部屋作りに時間を使ってもいい。今日は住民と話しただけで終わり、という遊び方でもゲーム側から否定されることはないのです。

もちろん、住宅を増築するためにお金を稼ぎ、ローンを返済するといった進行要素はあります。

ただ、それさえ絶対ではありません。ローン返済を急がず、小さな家のまま生活を続けてもペナルティはないため、「次に何をしなければならないか」ではなく、「次に何をしたいか」で遊べるようになっています。

ここに、『どうぶつの森』ならではの自由さがあります。

何もすることがないのではなく、やることを自分で決められるから、何もしないことまで許されている。

この違いが、明確な目的を持たないゲームを成立させる大きな土台になりました。

現実と同じ時間が流れるリアルタイム連動

もう一つ欠かせなかったのが、ゲームの中に流れる「時間」です。

『どうぶつの森』では、プレイヤーが遊んでいる間だけ時間が進むわけではありません。現実が朝なら村にも朝が訪れ、夜になればゲームの中も暗くなる。冬には雪が降るなど、現実の時間や季節と村の暮らしがつながっています。

この仕組みがあることで、「ゲームを再開する」という感覚も少し変わります。

昨日遊ぶのをやめた場所から続きを始めるというより、自分が遊んでいなかった間にも村では時間が流れていたように感じられるからです。

だからこそ、「今日は何か変わっているかな」と気になって、また村へ行きたくなる。クリアを目指して先へ進ませるのではなく、時間の変化そのものが次にゲームを起動する理由になっています。

一方で、現実と同じ時間を採用したからこその不便もありました。

たとえば夜にしか遊べない人の場合、ゲームを起動した頃には村のお店が閉まっていることがあります。それでもリアルタイムという特徴そのものをなくすのではなく、後の作品では営業時間を変えられる仕組みを取り入れるなど、生活リズムに合わせて遊べる方向へ調整されていきました。

便利さを優先して現実とのつながりを切るのではなく、不便な部分を調整しながら残していく。それほど「現実と同じ時間の中で暮らす」という感覚は、このシリーズにとって大切だったわけです。

会わなくても誰かの存在を感じられるコミュニケーション

そして、もう一つ面白いのが「誰かと一緒に遊ぶ」という考え方でした。

初代では、同じ村で生活するプレイヤー同士がリアルタイムに集まって遊ぶわけではありません。

それぞれが好きな時間にゲームを始め、自分の家を持って生活する。ところが村には、別のプレイヤーが書いた手紙や掲示板のメッセージ、植えた木や残したアイテムなどが存在するため、自分がいない間に誰かがここで過ごしていたことを感じられました。

同じ場所にいなくても、一緒に暮らしている感覚がある。

これは、オンラインゲームで同じ時間に集合して遊ぶのとは少し違います。昨日は自分が村で過ごし、今日は家族が遊ぶ。翌日にゲームを起動すると、自分の知らないところで村に小さな変化が起きている。

その「誰かがいた痕跡」そのものがコミュニケーションになっていたのです。

もちろん、つながる相手は人間のプレイヤーだけではありません。

村で暮らしている動物たちにも性格や口癖があり、何度も話しかけたり、手紙を送ったりするうちに関係が生まれていきます。誕生日を祝ってもらうこともあれば、手紙の返事が届くこともあるため、単なるNPCではなく「同じ村で暮らしている住民」として意識するようになっていきました。

だから、強い武器が手に入らなくてもゲームを起動する理由が生まれます。

「今日はあの住民に話しかけよう」「昨日送った手紙の返事が来ているかもしれない」。

そんな小さな出来事が、次の日も村へ戻りたくなる理由になるのです。

目的がないから自由に過ごせる。現実と同じ時間が流れるから明日が気になる。そして、自分がいない時間にも誰かが暮らしているから、また村へ帰りたくなる。

戦闘もダンジョンも捨てた『どうぶつの森』は、この3つを組み合わせることで、「クリアを目指さなくても続けたくなるゲーム」を作り上げました。

そして、この遊び方はゲーム好きだけに受け入れられたわけではありません。

むしろ、従来のゲームにあまり触れてこなかった人たちまで巻き込んでいったことが、『どうぶつの森』を巨大なシリーズへ成長させることになります。

なぜ『どうぶつの森』はゲームをしなかった人にまで広がったのか

『どうぶつの森』が大きなシリーズへ成長した理由を考えるとき、もう一つ見逃せないのが、それまでゲームにあまり触れてこなかった人たちまで遊び始めたことです。

操作が上手くなくても困らない。反射神経を求められる場面もほとんどなく、強い敵に何度も負けて先へ進めなくなることもありません。

さらに、一日に何時間も遊ぶ必要があるわけではなく、少しだけ村へ立ち寄って住民と話し、気が向いたら魚を釣って終わりでもいい。前の見出しで触れた「何もしなくてもいい」というゲームデザインが、ここでは大きな意味を持ってきます。

ゲームに慣れている人だけを基準に遊び方を作らなかったからこそ、年齢や性別、ゲーム経験に関係なく、自分なりの楽しみ方を見つけやすかったのです。

実際、シリーズは若い女性や主婦を含む、それまでゲームとの接点が薄かった層にも広がっていきました。特にニンテンドーDSで発売された『おいでよ どうぶつの森』のヒットは大きく、『どうぶつの森』を任天堂を代表するシリーズへ押し上げる転機になっています。

ここで重要なのは、遊びやすくするためにゲームとしての面白さを単純化したわけではないことです。

たとえば魚を集めたい人には、季節や時間帯によって違う魚を探す楽しみがあります。部屋作りが好きなら家具を集め、自分好みに配置するだけでも長く遊べる。住民との交流が好きなら、毎日のように話しかけながら関係を深めていくこともできます。

つまり、入口はかなり広いのに、その先にはプレイヤーごとに違う遊びが待っているのです。

しかも『どうぶつの森』の場合、「上手くなること」だけが長く遊ぶ理由ではありません。

村には個性の異なる動物たちが暮らしていて、それぞれに性格や口癖があります。何度も顔を合わせていると、最初はゲーム内のキャラクターだったはずの住民にも少しずつ親しみが生まれ、「今日はあの子と話しておこう」と思うようになっていきます。

この感覚は、RPGで仲間のレベルを上げることとも、アクションゲームで難しいステージを攻略することとも違います。

何か大きな報酬があるから会いに行くのではなく、その住民がそこに暮らしているから会いに行く。

ゲーム内のキャラクターとの関係そのものが、遊び続ける理由になっているわけです。

だからこそ、『どうぶつの森』では同じゲームを遊んでいても、人によって思い出がかなり違います。

好きだった住民の話をする人もいれば、家作りに夢中になった人、虫や魚を集め続けた人もいる。家族で同じ村を使っていたなら、自分が遊んでいない時間に誰かが残した変化まで、その人にとっての思い出になります。

用意された一本の物語を全員が同じように体験するのではなく、プレイヤーが過ごした時間そのものが、その人だけの物語になっていく。

この作りなら、ゲームに慣れているかどうかはそれほど重要ではありません。

勝つ必要もなければ、誰かより上手くなる必要もなく、自分が楽しいと思ったことを続ければいい。その間口の広さによって、『どうぶつの森』は従来のゲームファンだけにとどまらず、より幅広い人たちがゲームに触れるきっかけにもなっていきました。

そして、この「誰でも自分なりに暮らせる」という特徴が、後にシリーズ最大級のヒットとなる『あつまれ どうぶつの森』で、想像以上の形で力を発揮することになります。

2020年、現実世界で人と会うことさえ難しくなった時期に、『どうぶつの森』が長年積み重ねてきた「離れていても同じ場所でつながれる」という遊びが、時代の状況と重なったのです。

そして『あつまれ どうぶつの森』はゲームを超えた社会現象になった

『どうぶつの森』が長年積み重ねてきた遊び方が、これまでとはまったく違う意味を持つことになったのが2020年です。

Nintendo Switch向け『あつまれ どうぶつの森』が発売された時期は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界中で人と直接会うことが難しくなっていました。外出を控え、自宅で過ごす時間が増えていく中で登場したのが、好きな時間に島へ行き、自分のペースで暮らしながら、離れた場所にいる人とも交流できる『あつ森』だったのです。

もちろん、シリーズがもともと持っていた魅力が突然変わったわけではありません。

魚を釣り、虫を捕まえ、家具を集め、自分の好きなように生活する。そこには初代から続いてきた『どうぶつの森』らしさがあります。

ただ、2020年という特殊な状況では、そこへもう一つ大きな意味が加わりました。

現実では会えなくても、『あつ森』の島なら会える。

これまでシリーズが大切にしてきた「離れていても同じ場所を共有できる」という考え方が、現実の状況と重なったのです。

実際、『あつ森』は単に家の中で時間をつぶすためのゲームとして遊ばれたわけではありません。自分の島へ友人を招いたり、SNSで島の様子を見せ合ったりと、人とつながるための場所としても使われていきました。

中には、現実で行うことが難しくなった卒業式をゲーム内で開く例まで現れています。

ここまで来ると、「人気ゲームがたくさん売れた」というだけでは説明しきれません。

本来なら現実世界で行われるはずだった出来事をゲームの中で行い、その様子をさらにSNSで共有する。『あつ森』の島が、遊ぶための舞台であると同時に、人が集まる場所としても使われるようになったわけです。

そして、この現象は販売本数にも表れました。

『あつまれ どうぶつの森』は発売直後から大きく売上を伸ばし、シリーズの中でも突出した規模のヒット作になります。Nintendo Switch本体を求める人も増え、抽選販売が話題になるほどの状況へ発展しました。

ただ、『あつ森』の成功を「発売されたタイミングが良かった」だけで片づけてしまうと、このシリーズがなぜ選ばれたのかという部分が抜け落ちてしまいます。

そもそも『どうぶつの森』には、急いで攻略する必要がありません。

毎日長時間遊ばなくてもいいですし、ゲームが得意である必要もない。自分の家や島を好きなように整え、ときには何もせず散歩するだけでも成立します。

さらに、誰かと競争することよりも、同じ場所で暮らしたり、作ったものを見せたり、そこに残された変化を楽しんだりすることが遊びになっている。

そのため、人との接触が制限され、自宅で過ごす時間が増えた状況でも、それまでと同じ『どうぶつの森』の遊び方が、そのまま人とつながる手段になりました。

考えてみれば、これは初代の構想から続いてきた発想でもあります。

最初に考えられていたのは、複数のプレイヤーが時間差で同じ世界に入り、誰かの行動が別の誰かに影響を与えるゲームでした。それが小さな村で一緒に暮らす形へ変わり、シリーズを重ねながら交流の方法も広がっていった。

そして2020年、その「離れていても同じ世界を共有できる」という遊びが、現実世界で人々が必要としていたものと偶然にも重なりました。

だから『あつ森』の社会現象は、突然生まれたものではなかったとも考えられます。

戦うゲームとして始まった企画から、何を残せば人はこの世界へ戻ってきたくなるのかを考え続け、その答えとして育ててきた「暮らすこと」と「人とつながること」。

初代から受け継がれてきたその二つが、約20年後の『あつまれ どうぶつの森』で、ゲームの枠を超えるほど大きな意味を持つことになったのです。

『どうぶつの森』が証明したのは「戦わなくてもゲームは面白い」ということ

ここまで振り返ると、『どうぶつの森』というゲームが少し不思議な成り立ちをしていることが分かります。

もともとは動物たちの力を借りながらダンジョンを攻略するRPGとして考えられていたものの、開発環境の変化によって、そのままの形では作れなくなりました。

そこで戦闘を簡略化してRPGとして完成させるのではなく、戦闘そのものをなくし、広大な冒険の舞台も小さな村へ作り替える。それでも「動物」「時間」「人とのつながり」という企画の核は残され、まったく別の遊びへ組み直されていったのです。

その結果として生まれたのが、敵を倒さなくてもいい、誰かと競わなくてもいい、そしてエンディングを目指さなくてもいいゲームでした。

代わりに待っているのは、今日は魚を釣ってみようとか、部屋に置く家具を探そうとか、好きな住民と少し話してみようといった、本当にささやかな出来事です。

一つひとつを切り取れば、RPGで世界を救うような大きな達成感があるわけではありません。

ところが、その小さな出来事を自分で選べるからこそ、プレイヤーごとに違った一日が生まれます。ゲーム側から「次はこれをやってください」と急かされないため、自分のペースで遊んでいるうちに、いつの間にかその村で過ごした時間そのものに愛着が生まれていくのです。

これは、単に「戦闘がない」という話とも少し違います。

『どうぶつの森』が見つけたのは、敵を倒すこと以外にも、ゲームを起動したくなる理由はいくらでも作れるということでした。

昨日話した住民が今日は何をしているのか気になる。季節が変わったから、今まで見かけなかった虫を探してみたい。誰かが村に何か残しているかもしれない。

こうした「ちょっと気になる」が積み重なって、プレイヤーを次の日もゲームへ戻していきます。

特に動物たちとの関係は、その仕組みを象徴する部分です。

性格や口癖が違い、手紙を送れば反応が返ってくる。誕生日のような出来事も共有しているうちに、単なるゲーム内のキャラクターではなく、同じ場所で暮らしている相手のように感じられるようになります。

しかも、そこに勝ち負けは必要ありません。

上手く操作できたから楽しいのではなく、そこに好きな住民がいて、自分の家があり、自分が過ごしてきた時間が残っているから戻りたくなる。

ゲームの面白さを「攻略」から「生活」へ置き換えたことこそ、『どうぶつの森』がそれまでのゲームとは違う場所へたどり着けた大きな理由だったのだと思います。

そして、その考え方は一作だけで終わりませんでした。

シリーズを重ねても、虫を捕まえたり、魚を釣ったり、部屋を作ったり、住民と交流したりする基本的な楽しさは受け継がれています。時代に合わせてできることが増えても、「何をするかは自分で決めていい」という部分までは変わっていません。

2020年の『あつまれ どうぶつの森』で、人々が島を作るだけでなく、離れた友人と会ったり、現実でできなくなった出来事をゲーム内で行ったりしたことも、その延長線上にあります。

そう考えると、最初に戦うRPGとして企画されていたことは、単なる意外な開発秘話ではありません。

RPGとして作れなくなったからこそ、「そもそもゲームの面白さに戦闘や明確なゴールは必要なのか」と別の方向へ発想を広げることになり、その答えとして「暮らすこと」そのものを遊びに変えていった。

作れなかったものの代わりを探した結果、それまでゲームの中心とは考えられていなかったものが主役になった。

そこから生まれた『どうぶつの森』が長くシリーズとして続き、やがて世界規模の社会現象にまで広がったことを考えると、この大胆な方向転換こそが、『どうぶつの森』最大の開発秘話なのかもしれません。

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