少し前まで「オープンワールド」と聞くだけでワクワクしていたのに、最近は新作がオープンワールドだと分かっても、以前ほど惹かれなくなった。そんな感覚を持っている人は、意外と多いのではないかと思います。
広大なフィールドを自由に歩き回れて、目に見える場所にはほとんど行ける。メインストーリーを放置して寄り道してもいいし、気になる場所を見つけたら自分の判断で向かってもいい。この自由さは本来、一本道のゲームではなかなか味わえないオープンワールドならではの魅力です。
ところが、実際に遊び始めてみると少し事情が変わってきます。
最初の数時間こそ「広いな」「どこまで行けるんだろう」と楽しんでいたはずなのに、いつの間にかマップに表示されたアイコンを順番に回り、似たような敵を倒し、素材を拾い、次の目的地まで長い距離を移動する。その繰り返しになってしまい、気づけば「これ、オープンワールドである必要があったのか」と感じてしまうわけです。
だからといって、私はオープンワールドというジャンルそのものがつまらなくなったとは思っていません。
たとえば『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のように、発売から長い年月が経ってもオープンワールドの代表作として名前が挙がるゲームがあります。つまり、このジャンル自体に魅力がなくなったのであれば説明がつかず、問題は別のところにあると考えたほうが自然です。
むしろ最近感じるのは、オープンワールドは作ることよりも、「広い世界を最後まで面白くすること」のほうが圧倒的に難しいということです。
マップを広くするだけなら、今のゲーム開発では珍しいことではなくなりました。しかし、その広大な土地を歩いた先に何があるのか、寄り道するたびに新しい発見があるのか、そして数十時間遊んでも「次はあそこへ行ってみたい」と思わせ続けられるのかとなると、一気にハードルが上がります。
実際、面白いオープンワールドでは、目的地へ向かっていたはずなのに途中で気になるものを見つけ、そこへ寄ったらさらに別の何かを発見してしまうため、プレイヤーの移動経路がどんどん脱線していきます。反対に、目的地から目的地へ一直線に移動するだけになってしまえば、せっかく用意された広大なフィールドも単なる移動区間になりかねません。
では、同じオープンワールドという形式を採用しているのに、なぜ時間を忘れて探索してしまう名作と、途中から移動することさえ面倒になる作品に分かれてしまうのか。
その違いを考えていくと、単純なマップの広さではなく、オープンワールドを面白くするうえで欠かせない、ある重要な要素が見えてきます。
オープンワールドで本当に重要なのは「広さ」ではなく「密度」
では、オープンワールドの名作と凡作を分けるものは何なのか。ここを考えていくと、まず重要になってくるのがマップの「広さ」ではなく「密度」です。
オープンワールドという言葉から、私たちはどうしても広大な世界を想像します。遠くに見えている山まで歩いて行ける、いくつもの街や村が存在する、マップの端から端まで移動するだけでも相当な時間がかかる。こうしたスケールの大きさは分かりやすい魅力ですし、新作ゲームの紹介で「前作の○倍の広さ」と聞けば、それだけで期待してしまうところもあります。
ただ、実際にゲームを遊ぶ側からすると、マップが100平方キロメートルあるのか200平方キロメートルあるのかは、それほど重要ではありません。
本当に大切なのは、その広大な世界を歩いている間に、どれだけ「何か」を感じられるかです。
ここでいう密度とは、単純に建物やNPCを大量に配置すればいいという話ではありません。森を歩いていたら見慣れない動物を見つけた、遠くから不思議な音が聞こえてきた、何気なく入った廃墟に小さな物語が残されていた。あるいは、道端ですれ違ったNPCが妙なことを話していたので、気になって後を追いかけてみた。そうした大小さまざまな「発見」や「驚き」が、どれだけ自然に散りばめられているかが重要になります。
別に、その一つひとつが大掛かりなイベントである必要もありません。
たとえば、雨が降ってきたので雨宿りできそうな場所を探したり、森の中を歩いていると虫や鳥の鳴き声が聞こえてきたりするだけでも、その世界に入り込むための材料になります。重要なのは「ここには何もない」と感じさせないことであり、プレイヤーが歩いている時間そのものに意味を持たせられるかどうかです。
なぜなら、オープンワールドを遊ぶ楽しさは、メインストーリーだけにあるわけではないからです。
ストーリーだけが目的なら、極端な話、目的地と目的地を一本道でつないでもゲームとしては成立します。それでもわざわざ広大なフィールドを用意するのは、その途中にある世界そのものをプレイヤーに味わってもらうためです。だからこそ私たちは目的地とは反対方向へ歩いてみたり、地図に何も表示されていない場所へ行ってみたりします。
そして、その寄り道の先で何かを見つけるたびに、「じゃあ、あっちには何があるんだろう」と次の興味が生まれていく。この連鎖が続いている間は、広いマップを移動すること自体が苦になりません。むしろ、目的地になかなか辿り着けないことすら楽しくなってきます。
反対に、いくら巨大なマップが用意されていても、10分歩いて何も起こらず、ようやく見つけた場所にも以前と似た敵やアイテムしかないのであれば、次第に探索する理由を失っていきます。
最初は「こんなに広い世界を自由に冒険できる」と感じていたものが、いつの間にか「次の目的地までこんなに移動しなければならない」に変わってしまうわけです。
つまり、オープンワールドにおける広さは、それだけでは面白さになりません。むしろ世界を広げれば広げるほど、そのすべてに発見を用意しなければならなくなるため、作り手に求められるハードルは上がっていきます。
そして、この「発見の密度」が高いゲームには、プレイヤーの行動にも非常に分かりやすい特徴が現れます。
目的地へ真っ直ぐ向かえなくなるのです。
面白いオープンワールドでは「目的地まで真っ直ぐ歩けない」
先ほど、オープンワールドでは「発見の密度」が重要だと書きましたが、それがうまく機能しているかどうかは、プレイヤーがマップ上をどのように移動しているかを見ると分かりやすいと思います。
たとえば、次の目的地が北にあるとします。本来なら、そのまま北へ向かって進めばいいだけなのですが、面白いオープンワールドではなかなかそうさせてくれません。
目的地へ向かって歩いていたら、遠くに妙な建物が見える。「あれは何だろう」と近づいてみたら、その途中で洞窟の入口を発見する。少しだけ覗くつもりだったのに奥まで探索してしまい、洞窟を抜けたところで今度は見たことのない敵に遭遇する。気づけば最初の目的地とはまったく違う方向へ進んでいて、当初の予定なんてすっかり忘れている。
オープンワールドを遊んでいて本当に楽しいのは、むしろこういう瞬間ではないかと思います。
ゲーム側から「ここへ行ってください」と指示されたから移動するのではなく、自分自身が何かに興味を持って行動する。その先で新しい発見があり、さらに別の興味へとつながっていく。こうしてプレイヤーの行動が次々と脱線していくからこそ、用意されたマップが単なるステージではなく、一つの世界として感じられるようになります。
言い換えるなら、面白いオープンワールドほど、プレイヤーが歩いた軌跡はぐちゃぐちゃになります。
目的地と現在地を一本の線で結ぶのではなく、途中で右へ逸れ、今度は左へ向かい、少し戻ったと思ったら別の場所へ寄り道する。ゲーム側から強制されているわけでもないのに、プレイヤー自身が勝手に遠回りを始めるわけです。
そして、この「勝手に遠回りしてしまう」という感覚は、オープンワールドにおいてかなり重要だと思っています。
そもそも自由に移動できる広大なフィールドを用意しておきながら、プレイヤーが最短距離しか歩かないのであれば、その広さを十分に活かせているとは言いにくいからです。道中に興味を引くものがなければ、プレイヤーにとってフィールドは「冒険する場所」ではなく、「次のコンテンツまで移動するための空間」になってしまいます。
こうなると、移動そのものが急激に面倒になってきます。
最初のうちは景色を眺めながら歩いていたのに、やがてファストトラベルできる場所を探すようになり、目的地までの距離を見て「あと1,500メートルもあるのか」と感じ始める。馬や車といった高速移動手段が手に入ったとき、世界を探索できる喜びよりも「これで移動時間を短縮できる」と感じたのであれば、その時点ですでにフィールドそのものへの興味が薄れている可能性があります。
もちろん、ファストトラベルや乗り物が悪いわけではありません。巨大なマップを快適に遊ぶためには必要な仕組みですし、一度訪れた場所を何度も徒歩で往復させられるのも、それはそれで苦痛になります。
ただ、まだ行ったことのない場所ですら「できるだけ早く通過したい」と思われてしまうのであれば話は別です。
本来、未知の場所へ向かうことこそオープンワールドの面白さだったはずなのに、その未知の空間が移動時間として認識されてしまっているからです。
だからこそ、名作と呼ばれるオープンワールドでは「次の目的地へ行く」という行為の途中に、プレイヤーの注意を奪うものがいくつも用意されています。それも単純にイベントの数が多いというだけではなく、遠くから見える地形や建造物、聞こえてくる音、偶然遭遇する敵やNPCなどを使って、「ちょっとあそこへ行ってみようかな」と自然に思わせてくるのです。
この「ちょっと」が何度も積み重なることで、気づけば1時間、2時間と寄り道してしまう。それでも作業をさせられた感覚はなく、むしろ自分で冒険したという記憶が残ります。
ところが、この仕組みを表面的に再現しようとすると、別の問題が出てきます。
プレイヤーに寄り道してほしいからと、マップ上へ大量のアイコンを配置して「ここに行けば何かありますよ」と最初から教えてしまう方法です。
確かにこれなら寄り道する場所には困りません。ただ、それを何十時間も繰り返していると、今度は「自分で何かを見つける冒険」から「マップに並んだ課題を順番に消化する作業」へと変わってしまいます。
「?」マークを埋めるだけになった瞬間、冒険は作業に変わる
ここまでの話だけを見ると、「それなら寄り道できる場所をたくさん用意すればいい」と考えたくなります。実際、多くのオープンワールドゲームでは広大なマップの各地にイベントや収集物、敵の拠点などを配置して、プレイヤーがメインストーリー以外にも寄り道できるように作られています。
問題は、その寄り道が本当に「自分で見つけたもの」になっているのかという点です。
マップを開けば大量の「?」が並び、そこへ行くと敵の拠点がある。敵を全滅させれば報酬が手に入り、次の「?」へ向かう。今度は宝箱や収集物が置いてあり、それを回収したら再びマップを開いて次の場所を確認する。こうした遊びを繰り返していると、最初は探索していたはずなのに、いつの間にかマップ上のアイコンを消すこと自体が目的になってしまいます。
もちろん、この仕組みそのものが悪いわけではありません。
どこへ行けば何があるのか分からないゲームは、人によっては遊びにくく感じますし、限られた時間の中で効率よく遊びたい人にとって、マーカーは非常に便利な仕組みです。私自身、何の手掛かりもないまま広大なフィールドを何十分も歩かされるくらいなら、ある程度の誘導はあったほうが遊びやすいと感じます。
ただ、それが行き過ぎるとオープンワールドならではの面白さまで削ってしまいます。
というのも、「あそこに何かありそうだから行ってみよう」と自分で考えることと、「マップにアイコンがあるから行ってみよう」では、同じ場所へ向かっていたとしても体験としてはかなり違うからです。
前者では世界を見ていますが、後者ではマップを見ています。
遠くに見える塔の形が気になったから向かう、森の奥から煙が上がっているので確認してみる、道が不自然に途切れているので少し脇へ入ってみる。こうした行動は、ゲームの世界そのものから情報を受け取って、自分で次の行動を決めています。
ところが、最初から目的地がアイコンとして表示されている場合、「何があるんだろう」という興味よりも「ここにはコンテンツがある」という答えを先に教えられているようなものです。
さらに厄介なのが、そのアイコンの先で体験できる内容まで似通ってくることです。
最初の敵拠点では戦闘そのものが楽しいので問題ありません。二つ目、三つ目くらいなら攻略方法を変えて遊ぶ余地もあります。ただ、十個、二十個と同じような拠点が続き、やることも「敵を倒して宝箱を開ける」という流れから大きく変わらないのであれば、次第に新しい場所へ行く意味が薄れてきます。
見た目こそ違っていても、そこで待っている体験をプレイヤーが予想できてしまうからです。
これはオープンワールドにとってかなり致命的な問題だと思います。なぜなら、本来このジャンルの魅力だったはずの「次に何があるか分からない」という感覚が失われてしまうからです。
森を見つけても「どうせ素材があるんだろう」、敵の拠点を見ても「倒せば宝箱が出るんだろう」、怪しい建物を発見しても「また似たようなイベントかな」と思うようになる。一度こうした状態に入ってしまうと、マップがどれだけ広くても新しい場所へ行くワクワク感は戻りにくくなります。
要するに、ロケーションの数が多いことと、体験の種類が多いことは同じではありません。
100カ所の寄り道スポットが用意されていたとしても、そこで体験できることが5種類しかなければ、プレイヤーからすると同じ遊びを形を変えて20回ずつ繰り返しているように感じてしまいます。最初の数回は楽しめても、数十時間遊んだ頃には「まだこれをやるのか」という感覚が出てくるのも無理はありません。
そして、この問題が特に目立ちやすいのがオープンワールドです。
マップを広くすれば、その広さに見合うだけのコンテンツを用意しなければなりません。しかし、すべての場所に異なるイベントや敵、NPC、物語を用意するとなれば、開発側に求められる作業量は途方もないものになります。
そこで現実的な方法として使われるのが、ある程度作った遊びを別の場所でも再利用しながら、広大なマップを埋めていくやり方です。見た目や配置を変えればボリュームは増やせますが、プレイヤーが受け取る体験まで新しくなるとは限りません。
だからこそ、「マップはものすごく広いし、やることも大量にある。それなのになぜか途中で飽きる」という、一見すると矛盾した感覚が生まれてしまいます。
では、なぜ開発側もそれを分かっていながら、似たようなコンテンツで巨大なマップを埋めざるを得ないのか。
そこには、オープンワールドというジャンルが抱えている開発上の難しさが深く関係しています。
なぜ「広いだけのオープンワールド」が生まれてしまうのか
ここまで読んで、「同じようなコンテンツを繰り返すから飽きるのであれば、場所ごとに違うものを作ればいい」と思った人もいるかもしれません。
確かに、それができれば話は簡単です。
100カ所のロケーションがあるなら、それぞれに違う景色があり、違う敵が登場し、違うイベントが発生する。街へ行けばそこで暮らしているNPCにも個性があり、何気なく立ち寄った洞窟にも固有の物語が用意されている。さらに戦闘や探索にも変化があって、どこへ行っても「ここでは何が起こるんだろう」と思えるのであれば、広大なマップを歩き回ることはかなり楽しくなるはずです。
ただ、当然ながらそれを実現するには、とんでもない開発コストがかかります。
オープンワールドは、単に広い地形を作れば完成するジャンルではありません。山や森、街といったロケーションを作り、そこに敵やNPCを配置するだけでなく、メインストーリーやサイドクエスト、戦闘、探索、収集といった遊びも組み込む必要があります。
しかも、それらを別々に作ればいいわけでもありません。
NPCが時間帯によって移動するのであれば、その行動がほかのイベントとぶつからないようにしなければならない。プレイヤーが想定外の方向から街へ入ってきてもイベントが破綻しないようにする必要がありますし、自由に探索できる以上、「開発者が想定していた順番で遊んでもらえる」とも限りません。
一本道のゲームなら、ある程度はプレイヤーが何をするのか予測できます。
このイベントを見たあとにこのダンジョンへ行き、このボスを倒したら次のエリアへ進む。遊ぶ順番をある程度固定できるのであれば、開発側もその流れに合わせて体験を設計しやすくなります。
ところが、オープンワールドではその前提が崩れます。
メインストーリーを進める人もいれば、開始直後から反対方向へ走っていく人もいる。数十時間寄り道してから戻ってくる人もいますし、本来なら後半で訪れる場所へ先に到達してしまうことだってあります。
自由度を高めるということは、それだけプレイヤーの行動パターンが増えるということでもあるわけです。
そのうえで、広大なマップのどこへ行っても退屈させないように作ろうとすれば、必要になる時間と人員は一気に膨れ上がります。『レッド・デッド・リデンプション2』のように世界の細部まで作り込むことも、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のように探索そのものを遊びとして成立させることも、簡単に真似できるものではありません。
とはいえ、ゲーム会社には当然ながら発売までの期限があります。
「面白くなるまであと何年でも作ります」とはいきませんし、開発期間が延びれば、それだけ人件費をはじめとしたコストも増えていきます。広大なマップを隅々まで作り込もうとしても、どこかで現実的な落としどころを見つけなければなりません。
そこで出てくるのが、一度作った遊びを再利用するという方法です。
一つの敵拠点を作ったら、地形や敵の配置を少し変えて別の地域にも置く。収集物を作ったら、それをマップ全体へ大量に配置する。サブクエストも基本的な構造を共通化して、「目的地へ行く→敵を倒す→アイテムを回収する→依頼主へ戻る」といった流れを繰り返せるようにする。
これは開発側からすれば、ある意味では合理的な方法です。
すべてを一から作るよりも圧倒的に効率がよく、広大なマップに「やること」を用意できます。プレイヤー側から見ても、序盤のうちは次々とイベントが見つかるため、かなり充実したゲームに感じられるかもしれません。
問題は、20時間、30時間と遊んだあとです。
「あ、このパターンは前にもやったな」と感じる場面が少しずつ増えていき、やがて新しい地域へ到着しても、そこで何をすることになるのか大体予想できるようになる。見た目は雪山から砂漠へ変わっているのに、プレイヤーがやっていることは以前とほとんど変わらないという状態です。
こうなると、マップの広さがむしろ弱点になってきます。
せっかく世界を巨大にしたのに、その巨大さを維持するために同じ遊びを何度も使わなければならず、結果として一つひとつの体験が薄く感じられてしまう。広大な世界を作ったことによって、逆に「また同じことをやらされている」という印象を強めてしまうわけです。
そして、ここに最近のオープンワールドが抱えている難しさがあるように思います。
マップが広いことは発売前にも伝えやすく、「過去最大のフィールド」「シリーズ史上最大規模」と言えば、その凄さも直感的に理解できます。一方で、「10分歩くごとに今まで見たことのない体験があります」という密度の部分は数字では表しにくく、実際に遊んでみなければ分かりません。
だからこそ、ゲームの規模はどんどん大きくなっているのに、遊んでいる側からすると「昔より冒険している感じがしない」という逆転現象が起こります。
そう考えると、オープンワールドにおいて「広い=豪華」「長い=お得」という価値観も、一度疑ってみたほうがいいのかもしれません。
そもそも100時間遊べることは、本当にゲームの長所なのでしょうか。
「100時間遊べる」は本当にゲームの長所なのか
オープンワールドゲームの紹介を見ていると、「クリアまで100時間」「数百時間遊べる」「過去最大のボリューム」といった言葉を目にすることがあります。
確かに、同じ価格で20時間遊べるゲームと100時間遊べるゲームが並んでいれば、後者のほうがお得に見えます。特に発売前の段階ではゲームの面白さを実際に確認できないため、マップの広さやプレイ時間、クエスト数といった数字は、その作品のボリュームを判断する分かりやすい材料になります。
ただ、ここまで触れてきたオープンワールドの問題を考えると、プレイ時間が長いことと、その時間すべてが面白いことはまったく別の話です。
たとえば、50時間のゲームを遊んでいて、ほぼ最後まで新しい場所や敵、イベントに出会える作品がある。一方では100時間遊べるものの、後半になるにつれて同じような拠点攻略や素材集め、移動を繰り返す作品もある。この二つを比べたとき、単純に100時間遊べるほうが優れているとは言い切れません。
むしろ問題なのは、オープンワールドでは「長く遊べること」を実現しやすい構造そのものにあります。
マップを広げ、各地に収集物を置き、敵の拠点を増やし、似た形式のサブクエストを追加していけば、プレイヤーがゲーム内で過ごす時間は伸びていきます。もちろん、それぞれに十分な面白さがあれば何も問題ありませんが、プレイ時間を伸ばすこと自体が目的になってしまうと、徐々に一つひとつの体験が薄くなっていきます。
そして厄介なのが、プレイヤー側も「せっかく用意されているから全部やりたい」と思ってしまうことです。
マップに未回収のアイコンが残っていると気になる。サブクエストが一覧に残っていれば消化したくなるし、収集率が87%と表示されれば100%まで埋めたくなる。最初は純粋に世界を冒険していたはずなのに、いつの間にか「残っているものを片付ける」ことがプレイを続ける理由になってしまうことがあります。
ここまで来ると、ゲームを楽しんでいるのか、ゲームを終わらせるために作業しているのか、自分でも分からなくなってきます。
特に社会人になると、この問題は無視しにくいものがあります。毎日ゲームに使える時間が限られている中で、100時間を超える作品を一本クリアするとなれば、それだけで数週間、場合によっては数カ月かかります。その100時間がずっと面白いのであれば喜んで遊べますが、途中の30時間、40時間が似た作業の繰り返しなら、「もう少しコンパクトでもよかったのでは」と感じるのも自然です。
もちろん、長時間遊べるゲームそのものを否定したいわけではありません。
気に入った世界で100時間、200時間と過ごせるのであれば、それはむしろ大きな魅力です。寄り道するたびに新しい発見があり、戦闘や育成にも幅があり、長く遊んでも興味が尽きないのであれば、プレイ時間の長さはそのまま作品の強みに変わります。
問題なのは、100時間遊べるゲームと、100時間遊ばせるゲームは違うということです。
面白くて気づいたら100時間遊んでいたのか、マップに大量のコンテンツを配置した結果、すべて消化するのに100時間かかったのか。同じ「100時間」という数字でも、プレイヤーが受け取る体験にはかなり大きな差があります。
そう考えると、オープンワールドに必要なのは、必ずしも「もっと広いマップ」でも「もっと大量のコンテンツ」でもないのかもしれません。
実際、巨大な世界を用意しなくても、限られた空間の中へ発見や遊びを詰め込むことで、高く評価されている作品もあります。『A Short Hike』はその分かりやすい例で、コンパクトな世界だからこそ一つひとつの寄り道が身近にあり、短いプレイ時間の中でも密度の高い探索を楽しめる作品として挙げられます。
つまり、「広い世界をどうやって埋めるか」と考える前に、そもそもその世界は本当にそこまで広くする必要があるのかを考える余地があるわけです。
オープンワールドという言葉に引っ張られて、世界は広ければ広いほどいいと思いがちですが、むしろ逆の発想をしたほうが面白くなるゲームもあります。
だったら、最初からマップを小さくしてしまえばいいのです。
マップを小さくすればオープンワールドはもっと面白くなる?
ここまで、マップを広げれば広げるほど、その空間を埋めるために大量のコンテンツが必要になり、結果として同じような遊びを繰り返しやすくなるという話をしてきました。
だとすれば、かなり単純な解決策が一つあります。
最初からマップをそこまで広くしなければいいのです。
オープンワールドと聞くと、どうしても「どこまでも続いている巨大な世界」を想像してしまいますが、別に北海道ほどの広さがなければ成立しないジャンルではありません。プレイヤーが自分の意思で行き先を決め、その過程で発見や寄り道を楽しめるのであれば、マップ自体はコンパクトでもオープンワールドとしての面白さは十分に成立します。
むしろ、世界を小さくすることで生まれるメリットもあります。
単純な話ですが、100のコンテンツを巨大なマップに散らばらせるのと、小さなマップへ詰め込むのとでは、プレイヤーが感じる密度が変わってきます。少し歩けば何かが見つかり、そこから別の場所が気になって寄り道する。その移動中にもまた何かを発見できるのであれば、プレイヤーは「何もない場所を移動している」と感じる時間が少なくなります。
その考え方が分かりやすく表れている作品の一つが『A Short Hike』です。
この作品は、巨大な都市や何十もの地域が存在するようなゲームではありません。舞台となるのは比較的小さな島で、そこで山頂を目指しながら自由に歩き回っていくという、とてもコンパクトな作りになっています。
ところが、その小ささが弱点にはなっていません。
少し道を外れると誰かに出会い、別の方向へ進めばアイテムが見つかり、高い場所へ登れば今まで見えなかった場所が目に入る。そうして「ちょっと寄ってみよう」を繰り返しているうちに、当初の目的だった山頂とは関係のないことを次々と始めてしまいます。
まさに、ここまで話してきた「目的地まで真っ直ぐ歩けない」状態です。
しかも、マップがコンパクトなので、一つの発見から次の発見までの間隔も自然と短くなります。何分も何もない場所を走り続けなくてもよく、「何か見つける→興味を持つ→寄り道する→また何か見つける」という流れが途切れにくい。世界の面積ではなく、その中でどれだけ多くの出来事に触れられるかを重視した作りになっています。
ここで面白いのは、マップを小さくすることが単なる妥協ではないという点です。
どうしても「巨大なオープンワールドを作れる大手メーカー」と「小さなマップしか作れないインディーゲーム」という見方をしてしまいがちですが、遊ぶ側にとって重要なのは開発規模ではありません。
10分歩いて一つの発見がある巨大な世界と、1分歩くたびに何か気になるものが見つかる小さな世界なら、後者のほうが探索していて楽しいことは十分にあり得ます。
考えてみれば、現実の旅行でも似たところがあります。
とにかく広い土地へ行けば楽しいわけではなく、少し歩くだけで気になる店や路地、建物、景色が次々と現れる街なら、目的もなく歩いているだけでも楽しめます。ゲームのオープンワールドもそれに近く、重要なのは移動できる距離そのものではなく、移動したくなる理由がどれだけ存在しているかなのだと思います。
そう考えると、「マップを広くする」という選択には、本来かなり慎重になる必要があります。
世界を2倍に広げたのであれば、単純に土地だけ2倍にすればいいわけではありません。その広さをプレイヤーに楽しんでもらうためには、発見や遊びの種類も相応に増やす必要があります。それができないまま面積だけを増やせば、結局は似たコンテンツを繰り返して配置するか、何もない移動区間を増やすことになってしまいます。
だったら、最初から世界を半分の広さにして、その分だけ一つひとつの場所を作り込んだほうが面白くなるゲームもあるはずです。
「オープンワールドなのに狭い」という言葉は、一見すると欠点のように聞こえます。しかし、その狭さによって寄り道の密度が高まり、最後まで新鮮な体験が続くのであれば、むしろそれは作品の強みに変わります。
ただし、ここで一つ勘違いしてはいけないことがあります。
これまで「密度が大切」と繰り返してきましたが、ではマップには常に何かを置いておけばいいのかというと、そうとも限りません。
何もない場所を歩かされることに、きちんと意味があるゲームも存在するからです。
逆に「何もない世界」が面白いゲームも存在する
ここまで読んできた人の中には、「結局、オープンワールドは密度を高くすれば面白くなるということか」と感じた人もいるかもしれません。
ただ、話はそれほど単純ではありません。
実はオープンワールドの中には、あえて世界をスカスカにすることで、その作品にしかない魅力を生み出しているゲームも存在します。
その代表的な作品として挙げたいのが『ワンダと巨像』です。
本作のフィールドは、これまで話してきた「密度の高いオープンワールド」とはかなり違います。広大な土地を移動しても、賑やかな街が見つかるわけではなく、そこで生活している大量のNPCと出会うこともありません。プレイヤーは愛馬アグロとともに静かな大地を進み、各地に存在する巨像を探して倒していきます。
今のオープンワールドの基準で考えれば、かなり「何もない」世界です。
もし別のゲームで同じことをやれば、「マップが広いだけ」「移動時間が長すぎる」と不満が出てもおかしくありません。それなのに『ワンダと巨像』の場合、その何もない時間が作品の雰囲気と噛み合っています。
なぜなら、このゲームにとって世界の寂しさそのものが意味を持っているからです。
主人公ワンダが足を踏み入れる「古えの地」は、人々が普通に生活している場所ではありません。モノを復活させるために禁断の地へ入り、正体も目的も分からない巨像を探して倒していく。その旅の中で、プレイヤーに親切に事情を説明してくれる住人が次々と現れるわけでもなく、広大な土地をほぼ孤独なまま進んでいきます。
だからこそ、巨像と巨像の間にある静かな移動時間まで含めて、「自分はとんでもなく遠い場所へ来てしまった」という感覚が生まれます。
もし、この世界の各地に村があり、商人からアイテムを買えたり、NPCから大量のサブクエストを受けられたりしたらどうなるか。ゲームとして賑やかにはなるかもしれませんが、『ワンダと巨像』が持っている孤独感や不穏さはかなり薄れてしまうはずです。
つまり、この作品における「何もない」は、コンテンツを用意できなかった結果ではなく、作品全体の雰囲気や物語を成立させるための余白として機能しています。
ここは、オープンワールドを考えるうえでかなり重要なポイントだと思います。
先ほどまで「密度が重要」と書いてきましたが、もっと正確に言えば、必要なのはマップをコンテンツで埋め尽くすことではなく、その世界の広さや空白に意味を持たせることなのだと思います。
たとえば荒廃した世界を描くゲームなら、何キロ歩いても人間に会わないこと自体が、その世界がどれほど壊れてしまったのかを伝える演出になります。果てしない荒野を旅するゲームなら、目的地までの長い道のりがあるからこそ、遠くまで旅をしてきた感覚が生まれることもあります。
こうしたゲームにまで「何もない場所には必ず敵や宝箱を置くべきだ」と考えてしまうと、かえって世界観を壊しかねません。
逆に言えば、プレイヤーが「スカスカだ」と感じるのは、単純にオブジェクトが少ないからではないとも考えられます。
何もない場所を10分歩いたとしても、その10分が孤独や緊張感、旅をしている感覚につながっていれば、プレイヤーにとって意味のある時間になります。しかし、次のクエスト地点へ向かうためだけに10分間走らされ、その途中に見るべきものも起こることもないのであれば、同じ10分でも受ける印象はまったく違います。
前者は「余白」ですが、後者は「空白」です。
この違いを考えると、オープンワールドの名作と凡作を分けるものが、少しずつ見えてきます。
マップが広いか狭いかでもなければ、単純にコンテンツが多いか少ないかでもありません。重要なのは、その広さ、その密度、そして何もない時間まで含めて、その作品がプレイヤーに体験させたいものと噛み合っているかどうかです。
そう考えると、「最近のオープンワールドはつまらない」という不満も、オープンワールドという形式そのものに向けられたものではないのかもしれません。
私たちが本当に飽きているのは、広い世界そのものではなく、広い世界の中で何度も繰り返される「同じ体験」なのではないでしょうか。
結局、オープンワールドに飽きたのではなく「同じ体験」に飽きている
ここまで考えてくると、「最近のオープンワールドはつまらない」と感じる理由も、かなり整理できてきます。
おそらく多くの人が飽きているのは、広い世界を自由に冒険することそのものではありません。広い世界へ行っても、結局やることが以前遊んだゲームとあまり変わらない。その体験の繰り返しに飽きているのだと思います。
新しいオープンワールドを始めると、最初の数時間はやはり楽しいものです。
まだ地図のほとんどが埋まっておらず、どんな街があるのか、どんな敵がいるのか、どこまで行けるのかも分からない。遠くに大きな建造物が見えれば気になりますし、初めて訪れた街では店を覗いたりNPCに話しかけたりしながら、その世界の仕組みを少しずつ理解していきます。
この段階では、ほぼすべてが新しい体験です。
ところが、10時間、20時間と遊んでゲームの構造が見えてくると、少しずつ印象が変わってきます。
高い場所へ登って周辺の情報を開放する。マップに追加されたスポットを巡る。敵の拠点を攻略して報酬を受け取る。素材を集めて装備を強化し、サブクエストを片付けたら次の地域へ向かう。
もちろん、こうした仕組み自体が悪いわけではありません。それぞれのゲームで戦闘システムも違えば、世界観やストーリーも異なりますから、同じような構造でも十分に楽しめる作品はあります。
ただ、オープンワールドという形式が広く使われるようになったことで、私たちプレイヤー側もその「遊び方」に慣れてしまいました。
新しい地域へ入った瞬間に、「たぶんこの辺りにも拠点があるんだろうな」「ここでは収集物を集めるんだろうな」と先の展開が想像できてしまう。まだ訪れていない場所なのに、そこで何をすることになるのか何となく分かってしまえば、未知の世界を冒険している感覚が薄れていくのも当然です。
これは、グラフィックを綺麗にするだけではなかなか解決できません。
雪山、砂漠、森林、巨大都市とロケーションを変えても、そこで繰り返している行動が同じなら、プレイヤーが受け取る体験まで新しくなるとは限らないからです。見たことのない絶景に感動した直後、マップを開いて次のアイコンへ向かい、以前と似た敵拠点を攻略する。そんなことが続けば、世界の見た目は変化しているのに、遊んでいる感覚だけが変わらないという状態になります。
だから、「オープンワールドに飽きた」という言葉には、少し注意が必要だと思います。
本当にオープンワールドそのものに飽きているのであれば、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『レッド・デッド・リデンプション2』のような作品まで同じようにつまらなく感じるはずです。それでも特定の作品については「今遊んでも面白い」「あの世界は歩いているだけでも楽しかった」と語られるのであれば、嫌われているのはジャンルではなく、その形式を使って似たような体験を繰り返す作品のほうだと考えたほうがしっくりきます。
そして、ここが名作と凡作を分ける大きな違いでもあります。
名作と呼ばれるオープンワールドには、そのゲームだからこそ成立する「世界を歩く理由」があります。
『ブレス オブ ザ ワイルド』なら、遠くに見えた地形そのものが探索のきっかけになり、自分なりの方法でそこへ辿り着く過程まで遊びになります。一方、『レッド・デッド・リデンプション2』では、世界の細部まで作り込むことで、目的もなく馬を走らせている時間まで西部劇の世界で生活しているような感覚につながっていきます。
つまり、オープンワールドという仕組みを採用したうえで、「このゲームでは何を体験させたいのか」がはっきりしているのです。
逆に苦しくなるのは、「オープンワールドであること」そのものが特徴になってしまった作品です。
広いマップがあり、好きな順番で探索でき、サブクエストも大量にある。それだけ聞けば十分に豪華なのですが、そこでしか味わえない体験がなければ、プレイヤーの記憶には「またいつものオープンワールドだった」という印象しか残りません。
オープンワールドが珍しかった時代なら、「どこへでも行ける」というだけで大きな驚きになりました。しかし、それを何本も経験したプレイヤーに、同じ驚きをもう一度与えることはできません。
だからこそ今のオープンワールドに必要なのは、さらにマップを広げることでも、アイコンを増やすことでもなく、「この世界だから寄り道したい」と思わせる理由を作ることなのだと思います。
そして厄介なことに、私たちはオープンワールドに飽きたと言いながら、それでも新しい作品が発表されるたびに期待してしまいます。
なぜなら、このジャンルが本当にうまく作られたときの面白さを、一度でも知っているからです。
それでも私たちがオープンワールドに期待してしまう理由
ここまでオープンワールドが抱えている問題をかなり取り上げてきましたが、それでも新しいオープンワールドゲームが発表されると、私はつい気になってしまいます。
「今度はどんな世界を冒険できるんだろう」と期待してしまうのです。
おそらく、それはオープンワールドという形式が本当にうまく機能したときの面白さを知っているからだと思います。
一本道のゲームでは、基本的に開発者が用意した順番に沿って物語を進めていきます。もちろん、その中でも探索や寄り道はできますし、一本道だからこそテンポよく濃密な物語を描けるという大きな強みもあります。
一方、オープンワールドには少し違った魅力があります。
「あそこへ行ってみたい」と思った瞬間に、自分の判断で本当にそこへ向かえることです。
次のストーリー目的地は北にあるのに、遠くの山頂に妙な建物が見えたので南へ向かってしまう。その途中で知らないNPCに出会い、頼み事を聞いているうちに洞窟へ入り、洞窟を抜けた頃には最初に何をしようとしていたのか忘れている。
それでも、不思議と時間を無駄にしたとは感じません。
むしろ「今日はストーリーが全然進まなかったけど、面白かったな」と思える。考えてみれば、これはかなり特殊なゲーム体験です。
なぜなら、その数時間は開発者から明確に「これをやってください」と提示されたものを順番に消化した時間ではなく、自分の興味に任せて行動した結果として生まれた時間だからです。
オープンワールドでは、同じゲームを遊んでいてもプレイヤーによって体験する順番が変わります。
ある人にとって序盤に見つけた場所を、別の人はクリア直前になって初めて発見するかもしれません。友人とゲームについて話していて、「そんな場所あったの?」となることもあります。
この瞬間、用意されたコンテンツがプレイヤー自身の「体験」に変わります。
もちろん、本当に世界のすべてを自由に作り出しているわけではありません。山も洞窟もイベントも、最初から開発者によって用意されたものです。それでも、何を見つけ、どこへ行き、何を後回しにするのかを自分で選べることで、「自分で冒険した」という感覚が生まれてきます。
そして、この感覚を一度強烈に味わってしまうと、次の作品にも期待したくなるのだと思います。
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』が長い年月を経てもオープンワールドの代表作として語られるのも、単純にマップが広かったからではありません。プレイヤーが世界を見渡し、自分で気になる場所を見つけ、そこへ向かうまでの過程そのものを遊びとして成立させたからこそ、強く記憶に残ったのだと思います。
だから、オープンワールドに対する不満が多いこと自体、必ずしもこのジャンルが嫌われている証拠ではないのかもしれません。
むしろ逆です。
本当に興味がなくなったのであれば、新作が出ても遊ばなければいいだけですし、「また同じようなオープンワールドだった」と不満を持つこともありません。それでも何本も遊び、そのたびに「もっとこうしてほしかった」と感じるのは、この形式ならもっと面白い体験ができるはずだという期待が残っているからです。
オープンワールド嫌いを自称している人ほど、実は過去に面白いオープンワールドを遊んでいる。少し逆説的ですが、そんなこともあるのではないかと思います。
一度でも、目的地を忘れて何時間も寄り道してしまった経験がある。何となく向かった場所で忘れられない景色やイベントに出会ったことがある。そしてゲームを終えたあと、ストーリーだけではなく「あの世界を旅したこと」そのものが記憶に残っている。
そんな経験があるからこそ、次のオープンワールドにも「もしかしたら、またあの感覚を味わえるかもしれない」と期待してしまいます。
結局、私たちが求めているのは、過去最大のマップでも、100時間を超えるボリュームでもありません。
次は何があるんだろうと思いながら、自分の意思で寄り道したくなる世界です。
そして、この部分にこそ「最近のオープンワールドはつまらない」と感じる理由と、それでもオープンワールドを遊び続けてしまう理由の両方があるのだと思います。
まとめ|必要なのは「もっと広い世界」ではなく「寄り道したくなる世界」
ここまで「なぜ最近のオープンワールドはつまらないと感じるのか」を考えてきましたが、結局のところ、オープンワールドという形式そのものが問題なのではないと思います。
マップが広いことも、プレイ時間が長いことも、それ自体が悪いわけではありません。
問題になるのは、その広さを活かすだけの体験が用意されているかどうかです。
どれだけ巨大なマップを作ったとしても、そこで待っているのが同じ敵の拠点、似たようなサブクエスト、収集物の回収ばかりなら、最初に感じた世界の広さは次第に薄れていきます。100時間遊べるゲームだったとしても、その大半を似た体験の繰り返しが占めているのであれば、プレイヤーにとっては「ボリュームがある」というより「長い」と感じる瞬間が増えていきます。
逆に、マップそのものは小さくても、歩くたびに気になるものが見つかり、「あそこへ行ってみたい」という興味が途切れないのであれば、その世界は実際の面積以上に広く感じられます。
結局、プレイヤーが求めているのは、マップの数字上の広さではないのだと思います。
次の目的地へ向かっていたはずなのに、遠くに見えた建物が気になって道を外れてしまう。その途中で別の何かを見つけ、少しだけ寄るつもりが、気づけば1時間もメインストーリーを放置している。
そんなふうに、予定通りに遊ばせてくれない世界こそ、オープンワールドの面白さが最も強く出る瞬間ではないでしょうか。
もちろん、『ワンダと巨像』のように、あえて何もない空間を作ることで孤独や静けさを表現する作品もあります。そう考えると、単純に「密度を高くすれば正解」という話でもありません。大切なのは、その広さや空白まで含めて、ゲームがプレイヤーに体験させたいものと噛み合っているかどうかです。
だから、オープンワールドの名作と凡作を分ける決定的な違いを一つ挙げるなら、私は**「その世界を自分から歩きたくなるかどうか」**だと思います。
マーカーがあるから向かうのではなく、何かありそうだから向かう。報酬がもらえるから洞窟へ入るのではなく、入口を見つけてしまったから気になって入る。クエストとして指定されたから山へ登るのではなく、高いところから景色を見てみたいから登る。
その小さな好奇心が次の行動につながり続けるゲームでは、移動そのものが遊びになります。
反対に、その好奇心がなくなった瞬間、広大なフィールドは次のコンテンツまでプレイヤーを移動させるための空間へと変わります。そしてプレイヤーがファストトラベルを繰り返し、マップ上のアイコンだけを見ながら行動するようになれば、オープンワールドである意味も少しずつ薄れていきます。
最近のオープンワールドに対して「もう飽きた」「どれも同じに感じる」という声が出てくるのも、おそらく世界が広すぎるからだけではありません。
広い世界を舞台にしながら、その世界を探索する理由まで似たものになってしまった。だから新しいゲームを始めても、「またこのパターンか」と感じる瞬間が増えているのだと思います。
それでも、オープンワールドというジャンルにはまだ大きな可能性があります。
実際、世界の作り方を変えれば、コンパクトなマップでも面白いゲームは作れますし、逆に何もない空間さえ作品の魅力に変えることができます。巨大で密度の高い世界を作ることだけが、オープンワールドの正解ではありません。
だからこそ、これからのオープンワールドに求めたいのは「前作の2倍の広さ」でも「数百時間遊べるボリューム」でもなく、そのゲームだからこそ歩いてみたくなる世界です。
目的地まで真っ直ぐ進むつもりだったのに、どうしても寄り道してしまう。
そしてゲームを終えたあと、ストーリーだけではなく「あの世界を旅した時間」まで思い出せる。
そんな作品が出てくる限り、オープンワールドは決してつまらないジャンルにはならないと思います。
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